インセカンズ
「今はちょっと思いつかないんで、後からでいいですか?」

本当は何もいらない。安信からは何も貰いたくはなかった。

「いいけど、有効期限は1カ月以内な。忘れた頃に言われても手持ちないぞ」

「分かりました。考えておきますね」

「ところでアズ、そろそろ、家に着く頃か?」

どうして分かったのだろう。ちょうどマンションに到着したところだ。

「はい。ちょうど今エントランスです」

「そうか。じゃ、ゆっくり休めよ。遅くに悪かったな」

「いえ。ヤスさんもゆっくり休んでくださいね」

「ああ。おやすみ」

「おやすみなさい。また明日」

緋衣はそのまま携帯に耳を当てたままでいる。少し間を置いて、電話が切れる音が聞こえた。

『噂なんて、嘘ですよね。今すぐ、会いにきて』

安信がおちゃらけて言った言葉を心の中で復唱しながら、メールボックスを確認する。投函されていたダイレクトメールと数枚のチラシにさっと目を通すと、設置してあるゴミ箱に捨てた。

乗り込んだエレベーターのインジケーターを見上げながら、ふと気付く。もしかしたら、安信は緋衣が家路に着くまで電話をしながら見守ってくれていたのだろうか。緋衣はふふと微笑む。安信の思わせぶりのおかげで、余計なことを考えずに済んでいる。

鍵を開けて部屋に入ると、小さな声でただいまを言う。

洗面台で手洗いとうがいをして、水を飲む為に冷蔵庫を開ける。常備してあるプリンの賞味期限は、まだ過ぎていない。

「亮祐。今すぐ、会いにきて」緋衣はぽつりと呟く。

プリンを見つめたあと、ミネラルウォーターのペットボトルを手に取った。

緋衣は、未だ決定的な言葉を聞かせられるのが怖くて、亮祐に確認したい事も聞けずにいる。安信に逃げても何の解決にもならない事は分かっているのに、八方塞がりとはこういうことを言うのだろう。

「もう少し、このままでいいかな……」

この二週間のあいだ、もう何度その言葉を口にしたことだろう。
このままではいけないと分かってはいるが、この状況は言うほど居心地が悪いものでもないと思う。

「年は取りたくないね。変わってしまう事が怖くて、身動きとれないなんて……」

かっこわるいな、自分……。
緋衣はペットボトルを冷蔵庫に仕舞うと、前髪をくしゃりと握ってその場で膝を抱えた。
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