それが愛ならかまわない
軽口にして流してしまうのは一番手っ取り早い防御の手段。
この人達は、椎名に偶然見られた時の様に私がブチ切れて人を罵る場面に遭遇したらどう思うだろう。
あの姿を見られたのが普段仕事上で関わりのない椎名で本当に良かった。もし同じフロアで日頃から顔を突き合わせている社員だったらその後もこんな風に振舞うなんて出来ないし、あんな口止め手段は絶対に使えない。
「じゃあ、お先に失礼します」
笑い続けるのが負担になる前に話を切り上げ会社を出ると、既に外は薄暗かった。
バイトまで少し時間があるから、着替えてどこかでコーヒーでも飲もうか。それとも少しくらい何か食べて行った方がいいだろうか。さっきのメールにどう返事をするかもちゃんと考えなくちゃいけない。
殆ど定時で仕事を終えたからそんなに疲れているはずはないのに、妙に身体が重い。軽くため息をつきながらとりあえず駅に向かって流れていく人混みに紛れる。
その時ふと人混みの中で何かが目を引いた。
数メートル前を同じ様に駅に向かって歩く細身のチャコールグレーのスーツを着た若いサラリーマン。
人混みから頭一つ飛び出るくらい背が高いという訳でもなく、もちろん奇抜な格好や髪型をしている訳でもない。どちらを向いても同じ様にスーツを着て行き交うサラリーマンだらけの中、なのに気づいてしまったのは完全に偶然の産物だ。
椎名だった。
無意識の内に近づいて声をかけそうになり、ギリギリの所で思い留まった。
どうせ乗る電車も降りる駅も同じだ。けれど声をかけるのと、このまま素知らぬふりを続けるのはどちらが自然なんだろう。