恋宿~イケメン支配人に恋して~



「事務仕事が忙しくて手が離せないんですって。『この前送迎会したんだからわざわざ見送らなくていいだろ』って、冷たい子よねぇ」

「忙しい、ねぇ……」



その理由が、言い訳だということは皆薄々気づいている。

私と千冬さんは、先日の一件から一言も口を聞いていない。それだけで漂う不穏な空気を感じ取り、従業員の間では『ふたりの間になにかがあったらしい』と噂が流れているのだそうで。

なにも知らないのは鈍感な島崎さんくらいだ。



……見送りも来てくれない、か。

なんとなく予想もしていたけれど、実際そうとなるとやっぱりちょっとへこむ。

でも顔を見るとまた泣きたくなってしまうから、これでいいのかもしれない。



「何時の電車で帰るの?」

「15時発の電車です。だから少し街を観光してから、お土産買って帰ろうかと」

「そう……気をつけてね」



フロントの壁にかけられた古い時計の針は、午後12時を示している。

寂しさも心残りもある、けど。私はその場で、また深く頭を下げた。



「1ヶ月間、本当にお世話になりました。……ここに来て、よかったです」



うまく言葉はまとまらず、沢山の言葉は言えない。

だけど、皆への精一杯の感謝を込めて。しっかりと言い切った言葉に、旅館を後にした。



ありがとう、さよなら。感謝も別れも、何ひとつ彼には伝えられなかったけれど。



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