残業しないで帰りなさい!
課長は今までずっと壁についていた手を離してパンパンと手のひらを叩いた。
何をするつもり?
少し顔を上げた瞬間、わずかな風と共にいきなり課長の体が私を囲い込むようにすぐ目の前に迫って、両耳の横でドンッと鈍い音が響いた。まるで影が覆いかぶさるように視界が暗くなったから、思わず目を見開く。
それはスローモーションのような、一瞬のような出来事で……。動きが早すぎて、私は目を見開いたまま、ピクリとも動けなかった。
煙草の匂い。課長の首筋。肌の質感。白い襟と濃紺のネクタイ。
課長の体に囲まれてる?ものすごい圧迫感。
この状況は、いったい……?
目の前で上下する喉仏。
私も思わず唾を飲む。
……。
近い、近い!あまりにも近いです。
これはもう、触れないギリギリの距離です。
肩の方へそっと視線を移すと、ダークグレーのスーツを着た肩が頬の前に迫っている。上腕はすぐ耳の横。
つまり?課長は壁に両肘をついて私の頭を囲い込んでいる状態?
……息、上手にできない。
揺れる瞳でおずおずとわずかに視線を上げたら、すぐ目の前に課長の顎が見えて、少し開いた唇が見えたから、息を飲んだ。
こんなの、もう、近すぎてドキドキしすぎて、気を失いそうです……。
「怖くない……?」
その唇が微かに動いてつぶやいた。
怖くは、ない。
ほんのわずかに顎を引いて、ぎこちなくうなずいた。
怖くはないのです。
怖くはないけれど、ただひたすらドキドキするのです。
「あんなの壁ドンじゃないから。こっちが俺の本気です」
そんな耳元に唇を寄せて囁くように言わないで……。
「こんなことするの、生涯で君だけだよ」
ドキドキしすぎて、もうわけがわかりません。私、意識を保つだけでも精一杯です。
課長が腕で囲んだ空間だけが熱を帯びているみたい。甘い……熱?
その時、横の扉がいきなりガチャッと開いた。