残業しないで帰りなさい!

えっ?

誰か来たっ!

課長の腕で顔は見えないけど、グレーのスーツと黒く光った靴が見える。

男の人……?私たちのすぐ横で扉に手をかけたまま立ってる。

「……課長、……なに、やってるんスか?」

この声、大塚係長!

「邪魔しないで」

課長は私の耳元に唇を寄せたまま微動だにせず、大塚係長の方を見もしないで言った。

靴の向きがくるっと変わって、大塚係長は室内に戻っていく。

……。

びっくりしたあ……。

っていうか、こんなの見られちゃったけど、平気なの?

扉が閉まる途中、室内から大塚係長の大きな声が聞こえた。

「ねえみんなー、たいへーん!課長が壁ドンしてるー!」

「!」

なにそれっ!?

「っ!……アイツ!」

「エーッ!」
「うっそー!」
「マジで!?」

中から大勢の声がガヤガヤと聞こえたのを最後に、扉がガチャンと閉まってどよめきは途切れた。

急に静か……。

課長の体がスッと私のそばから離れた。途端に冷たい空気が流れ込んできて、ハッとする。
いきなり手を掴まれて、そのまま勢いよく手を引かれた。

「逃げよう!」

「ええっ?」

振り返った課長は笑っていた。なんだか楽しそう?

握られた手にドキドキする間もないまま、課長にぐいぐいと手を引かれて、鉄製の階段を音を立てて駆け上がる。

カンカン、カンカン、カンカンッ。

階段を駆け上がる音が響く。
青い空が眩しい。

手を引きながら、スーツを翻して時々私を振り返る課長は、やっぱり楽しそうな顔をしていた。そんな顔を見たら、私までなんだか楽しくなってしまう。
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