強引社長の甘い罠
「後は僕が。君はもう下がっていいよ」

 ふらり、と一歩後ずさる。
 私は今までに、これほどまでに冷たい彼の視線を受けたことがあっただろうか。彼は、こんな顔を私に見せたことがあっただろうか。

 嫌だ。この場にいたくない。
 彼に寄り添う佐伯さんの誇らしげな姿よりも、彼が私の名前を聞いても私を思い出さなかったことよりも、何より彼の視線が私を苦しめた。

 あの視線に耐えられる私であれば、こんなに何年も彼のことで苦しみ続けるはずがない。

「……分かりました。それでは失礼いたします」

 やっとのことでその一言を告げた私は、二人から、いや、祥吾から逃げるようにその場を後にした。祥吾の視線を背後に感じることすら、きっと私の思い上がりだ。
 まるで水の中で溺れてでもいるように息苦しい。エレベーターの到着がやけに遅く感じられた。

* * *

 土曜日の午後、私はいつものように聡と遅めのランチに出ていた。オートオークションの仕事が入って忙しくなったとはいえ、今のところは聡もまだ休日は休めるようだ。

「この後どうする? 映画でも観る?」

 フォークにやや多めのパスタを巻きつけながら聡が言った。明るめの髪色から覗く切れ長の目が私を見つめる。

 私は先週の展覧会での出来事を思い出していた。
 会社を買収した祥吾を朝礼で見たときから、本当はもう分かっていたはずだ。私は彼を忘れることができない。彼にほんの一瞬見つめられただけで、他の全ての物事が私の頭の中から消えてなくなる。ただ彼だけが存在し、私の心と体を支配する。
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