強引社長の甘い罠
 化粧室を出た私の視界が、背が高く、肩幅の広いたくましい体で塞がれたからだ。高級そうなスーツも、シャツも全て黒で、ネクタイは光沢のあるグレー。

 男はまるで私を待ち伏せてでもいたかのように、片方の肩を壁に預け、ほんの少し体重を掛けるように足を交差させて腕を組み、真っ直ぐこちらを向いて立っていた。

 私は目の前の状況が理解できず、数回またばきを繰り返した。
 男は壁から体を離すと腕は組んだまま、私を見下ろして言った。

「俺はどうやらずっと思い違いをしていたようだ」

 低くうなるように発せられたその声には、侮蔑の音色が混ざっている。

「……どういう意味?」

 私はキュッと顔を引き締めてから、目の前で威圧的に自分を見下ろしている男を見上げた。彼の凍りつくような冷たい視線が、つい先ほどまで浮かれていた私の体を容赦なく突き刺す。

 落ち着いた態度で、はっきりとした口調で答えたつもりだったのに、突然目の前に現れ、訳もわからず責めるような眼差しを向けるこの男に、私の心がえぐられたような悲鳴を上げた。私はいったい、何回こんな気分を味わわなければならないの?

「急に現れて、突然そんなことを言われて。意味が分からないわ。もちろん、あなたは分かっているんでしょうけれど。だってあなたは何でも出来て、何でも手に入れられる人だもの。そうでしょ? 桐原社長」

 彼との間に距離を取りたくて、私は敢えて彼を名前で呼ばなかった。そんな小細工をしても、私の気分は晴れないし、むしろむなしくなるだけだというのに。もちろん、彼との距離だって一ミリも変わっていない。今私が一歩踏み出せば、彼の腕の中に飛び込んでしがみついてしまいそう。実際には、二、三歩は離れていたかもしれないけれど、とにかく私にはそう感じられた。

「俺と違って、君は俺のことをよく分かっているようだ」

 祥吾が一歩近づいた。
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