僕と、君と、鉄屑と。
 麗子は、顔を上げた。そして、関口の手を、払いのけた。涙の乾かないままのその目は、その顔は、初めて、あの応接室で、直輝の手を払いのけた、あの時のように、強い。
「ウソよ」
「ウソじゃありませんよ」
「そんなわけないわ」
「奥さん、これを……」
「ウソよ! 村井さんは、そんな人じゃない! 村井さんはね、とっても、とっても優しい人なの。私のこと、ずっと支えてくれる。悲しい時も、寂しい時も、ずっと、ずっと、私のそばにいてくれたの。あんたなんかに、村井さんの何がわかるって言うの? 直輝もね、私もね、村井さんを信じてる。村井さんは、そんな、そんな人じゃないのよ!」
麗子? 君は、どうしたんだい? 何を、言ってるんだい?
 関口は明らかに動揺し、スマホを、麗子に突き出した。
「見たでしょう? この写真。ほら、このキス、これが全てなんですよ。ほら、もう一度……」
「こんな写真、合成……」
そこまで言って、麗子は、お腹を押さえ、顔を歪めた。
「麗子さん?」
麗子はうめき声をあげて、ベッドにうずくまった。
「麗子さん! どうしたんですか!」
「……痛い……痛いの……」
麗子の顔は蒼白で、油汗が流れ、身体はガタガタと震えている。
「救急車……おい、救急車だ!」
僕は急いでスマホを出したが、しまった、電源を落としていた。なかなか、起動しない! 焦る僕の隣で、関口は固まって、呆然と立ちすくんでいる。
「関口! 救急車を呼べ!」
僕の声に関口は我に帰り、119を押そうとしたが、手が震えているのか、なかなかかからない。
「貸せ!」
僕は救急車を呼び、麗子の手を握った。
「麗子さん、しっかりしてください」
「こんなことになるなんて……」
関口は蒼ざめて、ガタガタと震えている。そして、僕も……手の震えが止まらない。こんな、こんなつもりじゃなかった。僕はただ……直輝を、取り戻したかった……ただ、それで、それでよかったのに……
「直輝……」
麗子は、弱々しく、呟いた。バッグの中で、携帯が鳴っている。きっと、直輝からだ。待ち合わせの時間は、もう、疾うに過ぎている。直輝は、麗子を心配して、ロビーで……どうしたらいいんだ……僕は、取り返しのつかないことを、してしまった……
「村井……さん……」
「なんですか、麗子さん。すぐに、救急車が来ますからね」
麗子は、その手で、冷たい汗ばんだ手で、僕の手を弱々しく握り……謝った。
「ごめんね……」
 なぜ、なんだ……僕は君を、騙していたのに……欺いていたのに……何の罪もない君に、腹の中の子供に、こんなに残酷な仕打ちを、したのに……
「村井さんのこと……つらく、してたよね……」
「麗子さん……僕は……」
「直輝も……つらかったんだよね……」
麗子、君は……
「私さえいなかったら……いいんだよね……」
こんな愚かな僕を……許してくれるのかい?
「違いますよ、麗子さん。騙してなどいません。僕と社長は……ただの……部下と上司です」
「……優しいんだね……」
麗子は、力弱く、微かに微笑んで、目を閉じた。
「麗子さん! 麗子さん! 麗子! しっかりしろ! 麗子!」
僕は必死に、麗子の名前を呼んだ。僕は必死に、麗子の体を抱きしめた。僕は、麗子を、失いたくなかった。絶対に、失いたくない!
「失礼します! 患者はどこですか!」
 ドアが開き、救急隊が入ってきた。麗子は担架に乗せられ、運ばれて行く。麗子の顔にはもう生気がなくて、僕は夢中で救急隊を追いかけ、ロビーへ降りた。ロビーは騒然としていて、僕は必死で、群衆をかき分け、大声をあげ、救急隊の、麗子と子供の、道を作った。こんなに大声を出したのは、生まれて初めてだった。こんなに誰かのために汗をかいたのは、初めてだった。

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