元教え子は現上司
 そんなぎこちない日々も、だけどきっといつかは終わっていたと思う。どうしたってこの想いは消えないのだから、時期がくればきっと、碧と向かい合うことができたはずだ。

 だからあの男が、自分と碧の関係に変化をつける唯一の存在だったとは、決して思わない。

 碧の怯えた顔を見て、胸が騒いだ。拒絶するように電車に乗り込んだ後ろ姿は頼りなげで、今度こそ俺は間違えられない、なぜかそう思った。

 碧の叫び声。後ろから小川に抱きつかれている姿を見た時、頭の底が真っ赤に焼けた気がした。取引先だとか、お互い社会人だとか、そんなことはどうでもよかった。殴って、追い返して、それでもまだ動悸が収まらない。守り抜いたなんて露ほどにも思えない。ただ強く、知りたいと思った。暁が不在だった、八年間を。

 そうして知った夏の日のできごとは、想像以上に胸の悪くなるものだった。どうして俺はもっとはやく、碧を探しに行かなかったんだろう。偉くなるとか勉強するとか、今まで信じてきたものを全て追いやってでも、碧にたどり着けるよう努力するべきだったんじゃないか。頭の中でもうひとりの自分が、畳みかけるように叫ぶ。
 
 いやでも、すべて信じていいのか。また嘘を吐かれてたらどうする。

 動揺と混乱から、そんなことまで考える。さっきの碧とあの男のやり取りを見て、疑う余地なんてないと、冷静に考えればわかるのに。
 それでも、碧がそんな目に遭っていたなんて信じたくない、その気もちがふいに口を滑らせた。

「どこまでほんとかわかんないけどね。あんた嘘つきだし」
 
 碧は目に見えて傷ついた顔をして、暁に背を向けた。帰ってくださいと言う声が震えていて、さっき暁の腕の中で震えていた碧を思い出した。ああ、と思った。
 俺は馬鹿だ。なにをやってるんだ。

 けれど、再会してから今までの碧を見て、信じたい気もちと信じられない気もちが混ざり合っていた。胸がドクドクとうるさく騒ぐ。
 だからあの時、古い漫画から一枚の紙きれが出てきたのを見た時の感情は、一言では言い表せない。

 碧が漫画を読んだ生徒に課していた感想文。最初のうちは真面目に感想を書いていた。だけどそれじゃいつまでたっても生徒のままだ。好きですと想いを書いたって、あの先生はきっと困ったように笑って本気でとってくれない。

 どうすれば伝わるんだろう。

 部屋の中、好きな音楽を聴きながら、じっと大学ノートの切れ端を見つめていた十六歳の自分。おもいきって書いてみたメールアドレス。
 純粋に、ただまっすぐに碧を好きだったときの暁がそこにいた。

 掌に固く尖る感触。気がつけば紙切れを握りつぶしていた。あの衝動はなんだったんだろう。
 あまりに長い片思いに、心のどこかが傷ついてもいたのだろうか。それともあの男への嫉妬からか。
 自分のことなのに説明がつかない。ただ胸が苦しかった。

 だけどそんな暁に、碧は告げた。忘れたくなかった、と。
 頬を思いきり張られたような衝撃だった。責める口調で、それなのに泣いていて、その涙を見たらもうだめだった。

 ふれたい。抱きしめたい。
 このひとは、おれのものだ。

 想いが溢れ出る。今度は、今度こそは間違えない。
 だってようやく心からの言葉を言える。

「もうどこへも行くなよ。俺のそばにいろよ、たのむから」

 碧の涙が光って見える。こんな時も、相変わらず碧はきれいだった。抱きしめると、いつかと同じ柔らかな香りがした。碧のにおい。
 八年ぶりにしたキスは、涙の味が混ざっていた。それなのにひどく甘く感じる。
 
 好きだ。
 ずっとずっと好きだった、俺の先生。
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