それは、一度終わった恋[完]

震える腕を押さえて、私は小さな声でお礼を言った。

「ありがとう……」

これ以上の感情を持ってはいけない。分かってる。分かってる。分かってる。

2年前、この人の手を離したのは私だ。

今彼の手は、彼の彼女のためにある。私のためにはない。仕事以上の感情を持ち合わせてはいけない。

「澄美、さっき言ってた、大学でできた本当に好きな人とも別れなくちゃいけなかったって、どういうことなのか説明しろ」

そうだ、それも聞かれてしまったんだ。
久々に名前で呼ばれたことに驚くよりも先に、頭から氷水を被ったように、体温が急速に下がって行くのを感じた。

どうする? なんて言い訳する? でも、学生のうちに付き合っていたのなんて、一之瀬さんだけだし。でもここで問い詰められたら、私は。

「澄美、こっち見て」

一之瀬さんの、動揺を押し隠した落ち着いた声が、頭に降ってきた。

私は、一之瀬さんと別れなくてはならなくなったあの日のことを、思い出していた。

あれは、院生と四年生を送り出すための幹部交代合宿のことだった。

サークルを辞めることになる院生と四年生はそれはもう飲まされて飲まされて、まさに潰すターゲットであった。
いくらお酒に強い一之瀬さんと言えど、最終的に日本酒の連続で倒されていた。
私は女の先輩と後片付けや介抱をしながら部屋を回っていた。
すっかり皆も潰れた頃、私も寝ようと女部屋に戻ろうとしたが、相当飲まされていた一之瀬さんの様子が少し気になって様子を見てみることにした。
一之瀬さんは完全に潰れて寝ていたが、とくに苦しそうな様子でもない。安心して部屋の襖を閉めようとしたが、そんな彼を呼ぶ声が部屋の中から聞こえて私は固まった。

「一之瀬さん……、寝てるんですか……?」

完全に寝ている彼に、誰かがキスをした。
それはとても一瞬の出来事で、止める隙もなかった。

……ショックであまり覚えていないけど、あれは多分、井上さんだった。井上さんが一之瀬さんのことを好きだったことを、私は一之瀬さんと付き合い出してから知った。

一之瀬さんは何も悪くない。
それなのに、一之瀬さんと会うたびに、私じゃない女性が一之瀬さんと唇を重ねていたあのシーンがフラッシュバックして辛かった。

一之瀬さんにキスをされたり触れられるたびに、あのシーンが頭に浮かんでわずかな嫌悪感すらいつしか抱くようになってしまった。

それから、一之瀬さんは社会人になり、忙しくてあまり会うことができなくなった。
それにどこかほっとしている自分がいた。何も悪くない一之瀬さんに時折嫌悪感を抱いてしまう酷な自分に罪の意識を感じなくて済んだからだ。

一之瀬さんのことは好きなのに、会うことが辛いなんて、自分でも矛盾していると思ってた。
井上さんのことを伝えても、彼にはどうしようもないことだ。

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