黒太子エドワード~一途な想い

最後の中世人

 だが、そんな状況でも、何故かジャン2世一人は、最後まで諦めず、孤軍奮闘を続けた。
 自分が王に即位して初めての戦だったからか、フランスが16000~18000人だったのに対し、イングランドはその半分の7000~9000人だったので、負けるというのが未だに信じられなかったのかもしれない。
 それでも、囲まれてしまうと、流石に動きが止まった。
 その時、人垣が分かれ、一人の騎士がそこから現われた。
 この時のことを、ジャン・フロワサールはその著書『年代記』の中でこう書いてある。
「流儀に則る自己紹介が行なわれた。
『陛下、小生はドニ・ドゥ・モルベックと申すアルトワの騎士ですが、イングランド王に仕えております。というのは、反逆罪に問われて領地を没収されたので、フランス王国に仕えるわけにはいかないからです』
 そして、この後、ジャン2世は投降したらしい。
 だが、王の身代金というのは、莫大な額となる。従って、たった一人の騎士ドニにそれを独占されてなるものかと、争いが生じてしまった。
 それを見たジャン2世本人が、のんきなことを言ったというのが記録に残っている。
『朕の身柄を巡って、喧嘩をすることはやめたまえ。というのも、朕は貴殿ら皆を揃って金持ちにしてあげられる位の大領主なのだから』(『英仏百年戦争』佐藤賢一著 集英社新書)
 「一国の王」が「大領主」と言うのもおかしいと思うが、まだまだ「国」の感覚よりも領地の感覚、家の感覚が優先した時代だったからなのだろう。
 加えて、この時代の「捕虜」というものは、現代のものと異なり、公道がある程度制限されるというものの、「客分」として優雅な生活が送れ、狩猟や舞踏会も楽しんでいた。
 だから、捕虜になってものんきだったのかもしれない。

 ──とにかく、ジャン2世が、イングランドの捕虜となってしまった。
 それにより、自動的にフランス王位は、王太子シャルルが継承することになった。すぐに即位をするというわけではなかったが。
 だが、相次ぐイングランドとの戦いで、村や町は疲弊していた。
 戦争自体でも騎行戦術等で村を焼くものもあったが、傭兵団が盗賊団となり、村や町を荒らしまわったので、被害も相当なものであったという。
 「大盗賊団」や「主なき部隊」「戦の後難」と呼ばれるた傭兵団の振る舞いに苦しめられた民衆の怒りは、18歳の王太子シャルルへと向かっていた。
 が、既に6年前に従姉のジャンヌ・ド・ブルボンと結婚していたとはいえ、病弱で、本ばかり読んでいら「学者殿下(le Sage)」には、おさえることも出来ず、全国三部会に助けを求めたのだった。
 その「三部会」というものは、1302年4月にフィリップ4世がパリにおいて招集したものが最初であるとされている。
 そして、第一身分が聖職者、第二身分が貴族、第三身分が平民で、「王家の姿勢に助言と同意を与える機関」とされてきたが、主に戦争の為の課税に対する同意を行なう所であった。
 フィリップ4世以降では、王太子シャルルの父、ジャン2世が1355年11月に、3万人の兵士を雇う、一年分の給金として、540万リーブルの援助金を請求し、同意されている。
 その後、ポワティエの戦いとなり、その1ヶ月後の1356年10月17日、王太子シャルルは、パリで北フランスのラングドイル三部会を招集したのだった。
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