残念御曹司の恋
その雲の上の人物が、長野工場に視察に訪れたのは、蝉の鳴き声が聞こえ始めた七月上旬のこと。
実際に増産体制に入る前に、どうしても現場を自ら確認したいという意向を受けてのことだった。

せっかくならと、新たな販路開拓を目指した周辺企業への営業活動も日程に組み込まれ、三日間滞在することになった。

その頃には、採用事務も一段落していた私たち人事係が、視察のスケジュール管理や本部長の食事や宿泊の手配をすることになった。

この時は、ちょっとした有名人に会うくらいのミーハーな気分でいた私たちは、わくわくしながらおみやげの名産品や宿泊先の温泉旅館を手配していた。
しかし、実際に目の前に本人が現れた時に、思い知ることになる。

熊澤堅という人物が。
いかに本気であるかということを。



「何だ、このぬるいスケジュールは。」

彼は工場に到着するなり、眉間に皺を寄せて告げた。

「何故、毎日昼食の時間を二時間も取ってあるんだ?フルコースでも食べさせる気か?あと、たかが泊まるだけなのにいちいち離れた温泉まで行く必要がどこにある?しかも、最終日に軽井沢でゴルフって、お前たちはふざけてるのか?」

彼の言い分はもっともだが、これまで本社の重役が視察に来ると言えば、観光メインの息抜き旅行が定番だったので、工場長を始めとした上役たちは、一様にポカンと口を開けてしまっている。
まさか本気で視察する目的でやってくるとは、誰も思っていなかったのだ。
その姿を見て熊澤は深い溜息を一つ落とすと、見放すように彼らを見て言った。

「まあいい、スケジュールはこちらで組み直す。時間があるだけ得意先と新規の営業先を回る。工場内の視察は時間を取るから、そこだけはちゃんと頼む。無駄な食事と遊びの予定は全部キャンセルして、市内のビジネスホテルを二部屋押さえてくれ。あ、部屋も普通のシングルでいい。」

そう言って、東京から連れてきた営業課長(おそらくシングルルームのうち一部屋は彼の泊まる分だろう)に指示を出した。
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