残念御曹司の恋

すぐに、その場でスケジュールは組み直される。
営業課長の村本は、熊澤よりも10歳以上は年上に見える落ち着いた男で、てきぱきと電話を片手にアポイントを取っていった。
熊澤本人もいくつか電話を掛けて、訪問先を固めていく。
そのあまりの手際の良さに、やっぱり彼らは雲の上の人間なのだと感じた。

やがて、村本が熊澤になにやら耳打ちしたところで、熊澤がこちらに向けて話し掛けてきた。

「外回りをするのに一人だけこちらの人材を借りたい。地元の土地勘があれば誰でもいい。」

そう言われて、工場長たちは一瞬固まってお互いに顔を見合わせた。誰もが、行きたくないという顔をして、牽制しているのだ。
その様を見て、また熊澤は呆れたように口を開く。

「簡単な案内と、食事の手配なんかをお願いするだけだ。変に気を遣いたくないから、むしろ役付の人間じゃない方がいいな。」

その一言に彼らはほっと胸をなで下ろしたのが分かった。
我が上司ながら情けない。
いつもはもっと頼りになる気がするのだが、今日ばかりは熊澤の勢いに押される一方である。

そして、彼らの視線は一同に私の方へと向けられた。

これは、仕方がない。
この場にいる、役付でない人間のうち、最も勤続年数が長く、年長なのは私だった。

「無理です!」と声に出さずに、慌てて首を振った私だが、時すでに遅し。
早くも出かける勢いの熊澤に「どうぞ好きに使って下さい」と、まるで文房具でも貸すかのように軽く差し出されてしまった。

上司を恨めしく見つめる私に、熊澤は「よろしく」と、手を差し出してきた。
恐る恐る見上げれば、真剣に私を見つめている真面目な顔があった。
その顔は密かに期待していたような、見目麗しい御曹司の顔ではなかったが、自信に満ちあふれた勇ましい男の顔だった。

見つめられ、一瞬息が止まったかのように動けなくなった私だったが、なんとか落ち着きを取り戻して、怖ず怖ずと自分の手を差し出した。

「佐藤千夏です。よろしくお願いします。」

その瞬間、彼がふっと笑って表情を緩めた。

「ああ、よろしく。」

この時、彼の手を取った瞬間に、私の運命はすでに決まっていたのかもしれない。
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