凪の海
 しかし、これでいいのだろうか。自分は音楽芸術の高みへ進まなければならない。それは自分の宿命のような気がしていた。そのためには、波間に浮かぶような心地よさに揺られて、貴重な時間を費やしている暇はない。佑樹のおじいちゃんからのアプローチが難しいなら、早く見切りをつけて新しいアプローチを見つけるべきではないか。汀怜奈は芸術家として、少なからぬ焦燥感を抱いていたのも事実だった。

 ドアチャイムが鳴った。
「あら、きっとルームサービスよ。」
 母親がドアに向かおうすると、汀怜奈が笑顔で制する。
「私が出ますから、お母様はソファーに座ってらして。」
 汀怜奈はドアに近寄るとチャイムを鳴らした人物に声をかける。
「どなたかしら。」
『はい、ルームサービスでございます。』
 ドア越しにくぐもった声。汀怜奈は、ドアを開けた。
「お待たせいたしました。ご注文いただきましたものを…。」
 汀怜奈はボーイを見て驚愕する。髪を綺麗に取りまとめられ、体にピッタリの制服を着ていて、いつもとまるで雰囲気は違うが、紛れもなく佑樹だったのだ。なんでこんなところに…。そういえば渋谷のホテルでバイトしているって聞いたことがある…。なぜか得体の知れぬパニックに陥った汀怜奈は、乱暴にドアを締めた。部屋に入りかかっていたワゴンが閉められたドアにはじかれて、上に乗っていた食器と飲み物が倒れてしまった。
「汀怜奈さん、なんてことしてるの?」
 娘の奇行に母親が慌ててドアに走り寄る。汀怜奈はドアを背に、母親にドアを開けさせまいと踏ん張っていた。仕方がないので、母親はドア越しに外の佑樹に声をかけた。
「ボーイさん、大丈夫ですか?」
『はい…すみません。ご注文のお飲み物をこぼしてしまって…お持ちし直しますので、もうしばらくお待ちください。』
 ドアの外では、慌ててワゴンを押して戻る音が聞こえてきた。

 佑樹が再びドアチャイムを鳴らした。今度は、汀怜奈は部屋のソファーでウィッグをつけて動こうともしない。母親がドアを開けた。
「さっきはごめんなさいね。娘がいきなりドアを閉めてしまったから…。」
「いえ…私のほうが不器用でご迷惑を…。」
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