【反省は】玉の輿なのにやらかした件。【していない。】


 景久さんは完全に周囲の様子は目に入っていないらしく、私の手を強く引いた。その容姿に似合わない力の強さに、私は彼が祭礼で披露した見事な演武を思い出してしまった。
 
「あ、あの。景久さん」

 突然のことで動揺を押し隠す余裕もない私は、景久さんの顔を見上げることもできない。

「情けないことですが、あの短い結婚生活の間、僕は決していい夫ではありませんでした。
 僕は、あなたを騙して陥れただけでなく、あなたが僕に向けてくれた打算の無い気持ちに男として応(こた)えることも出来ませんでした。
 僕は、あなたから受け取るばかりで、何もあなたに与えることが出来なかった。
 僕が出来たのはあなたの経歴を傷つけ、気持ちを傷つけ、大怪我をさせることだけです」

 私はその血を吐く様な言葉に思わず顔をあげた。景久さんが怖いなんて気持ちはもう忘れてしまっていた。
 景久さんはその美しい瞳に私を映していた。
 その瞳はせつなげに私を見つめ、柔らかそうな長いまつげはかすかに震えている。

「そ、そこまでひどい夫ではなかったですよ。たぶん……」

 勝手に口先ばかりの軽薄なフォローが出てくる。

 でも、私が景久さんを嫌ってあの家を出たのではないのは本当だ。あのころ、私は景久さんのことが好きだったから、景久さんの自由な気持ちを応援したいと思って離婚を提案したのだ。
 まあ……あれから一年もたってしまった今ではそんな気持ちもただ懐かしいだけで、今も景久さんが好きかといわれると、「去る者は日々に疎し」の諺(ことわざ)どおり、ステキに見えた景久さんの印象も日に日に薄れてしまった。

 現在は俗に言う「忘れた」と「冷めた」の両方の状態だ。
 だってほら、遠くの元夫よりも近くの雰囲気イケメンのほうがワクワクドキドキするじゃない。

 景久さんは苦笑して首を横に振った。

「いいえ、僕がひどい夫だったからこそあなたはあれほどあっさりと北条家を出て行き、未練など感じることなく楽しく暮らせているのです。
 反対に僕は、姿の見えないあなたに気持ちを乱されて、ただただあなたの電話を待つばかりの身になってしまいました」


「あなたはいい意味でも悪い意味でも前しか見ない人ですから、元夫に近況の一つも知らせてやろうという気持ちは持ち合わせないようですね。
 せめて友人でいられたらこんなに苦しい思いはせずにすんだでしょうに」


 私は思わず周囲を見回した。

 先ほど私を助けてくれなかったほかの客やバーテンダーが私たちをちらちらと盗み見ている。それを意識した途端、私はもう耐えられなくなった。

 外国暮らしの長かった景久さんにとっては人前で愛の告白とも取れるような言葉を口にしたって抵抗がないのかもしれないが、衆人環視の中でこれを黙って聞いている私はいたたまれない。
 

「か、景久さん。ちょっと落ち着こう。
 落ち着いてお薬を飲んでからもう一度お話を拝聴させていただきますから」

「美穂さん、ちゃんと聞いてください。僕は薬など必要としていません。
 今の僕に必要なのは、あなたです」

「ふぁあああっ、いや場所柄を考えてくださいよ!こんな静かな店でそういう話は、ちょっと」

「僕は人に聞かれて困るような話をしているわけではありません」

 珍しくむきになったのか、景久さんは私の手を引き寄せ、きつく私を抱きしめた。彼の腕の中は落ち着いた品の良い香りがかすかに感じられ、その香りがかつて私達が過ごした短い結婚生活を思い出させる。


「あの時、あなたの手を離してしまったことをずっと後悔しているのです。
 遠くにいってしまった人を思いながら、同時に嫉妬に狂う生活がこれほど苦しいものだとは知りませ、」

「もうやめてええ!わかった!言いたいことは大体把握しましたからもう帰りましょう!景久さんは酔ってるんですよ」

 とうとう耐えられなくなって私は大声で叫んだ。そして今までとは逆に景久さんの手をつかむと、先ほど支払った一万円のお釣りを受け取る余裕もないまま、逃げるように彼を店の外に連れ出した。



「もう!何を考えているんですか景久さん!
 あんたは私に恨みでもあるのか!」


 地下駐車場に彼を連れ出した私はエレベータを出るなり全力で抗議した。


 景久さんは地元に帰れば東京での出来事なんて無関係に暮らせるだろうが、私はここに住んでいるのだ。
 ああ、私はもうこの店には来られなくなってしまった。それにもしあの店の客に会社関係の知り合いがいたら私の快適な社会人生活は完全終了だ。 

 私の抗議を受けて、彼は少し首を傾げた。天使のそれのように柔らかい彼の髪が彼の額にかかるその様子は、妙に絵になっていて、私はついそちらに気をとられてしまう。

「恨み……。改めて言われてみればそうかもしれませんね。
 完全に逆恨みではありますが、あなたが朱雀の巫女さまでさえなければ、僕は今でも桜子を愛していたでしょうし、これほど苦しい思いもせずにすみました。
 あなたがいけないのです。契約結婚だったのに、僕に……あれほど美しい気持ちを向けたりするから」

 今度は人のせいか!!桜子さんにふられたことに私は関係ないだろうよ!
 私は怒り狂って景久さんの向こう脛を蹴ろうとして、あっさりとその腕の中に再びとらわれる。
 懐かしく上品なその香りに包まれると、私が忘れてしまっていたあの懐かしい日々が、私の意に反して蘇ってくる。

「僕を無視するのはもうやめてください。
 もういきなり結婚を迫ったりはしません。だから、もう一度だけ僕にチャンスをください」

 彼は私の髪に鼻を埋めるようにして囁いた。距離が近い!!

「チャ、チャンスってなんですか。嫌な予感がするんですけど……」

 そこで景久さんははたと顔をあげて私の顔を見つめた。

「そういえば、あなたと二人きりになる計画ばかり考えていたので具体的にあなたに何を要求するのかについては何も考えてきませんでした。
 そうだな……。いきなり再婚、は前回とは状況が違いますので検討の余地なくはねつけられるでしょうし。もう少し譲歩したほうがいいのかな……」

 怖い独り言はやめろ!

「あ、あのですねえ。私がアンタの要求に応じる義務は一切無いけれど、一応元夫婦のよしみで話くらいは聞こうって言ってるだけですからね?
 こ、これは警告ですけど、いやらしい要求でもしようものなら迷いなく通報しますからね?」

「いやらしい要求。それは考えたことがありませんでしたが、一考の余地はありますね」

 真面目な顔でそんなことを言われてはさすがの私も鞄の中の携帯を意識する。
 もし何かされたら迷いなく通報だ。
 さりげなくバッグを引き寄せ、中の携帯を探っていると、彼はそれを目にとめて微笑んだ。

「冗談ですよ、もちろんあなたとそうなれたらいいなとは思いますが、大事な女性に嫌われてまでするようなことではありません」

「真剣な顔でそんな怖い冗談言わないでくれます?通報しますよホント」


 私は憎々しげな口調でそう吐き捨てた。真顔で冗談を言い、微笑んで人を脅す。この人はあのころと少しも変わらない。

 彼は眩しいものでも見つめるかのように目を細めて私を見つめていた。その目は本当に切なげで、この一年、彼が私の電話を待っていたというのは嘘でも誇張でもないのかもと思われた。
 いきなり連絡を断ったのはよくなかったのかな。でもそうしなきゃ私の未練が断ち切れなかった。


「懐かしいですね。あなたのその物言い。
 一年前に、戻れるならば戻りたい。
 こんな事を望んではいけないのでしょうが、時々、朱雀が僕を縛っていた頃が懐かしくなるのです」

 私は今さらそんなことを言う景久さんが見ていられなくて、目をそらした。

「そんなこと、言わないでくださいよ……」

 人間、過去には戻れない。
 私が巫女として北条家当主に必要とされていた時間は終わったのだ。だからこそ私は景久さんと離婚して、本来のあるべき私の生活に戻っている。今さらあの家に縛られに戻る気はないし、その必要もない。

「そうですね。せっかくあなたが僕に捧げてくれた純粋な気持ちを無碍(むげ)にするようなこと、望むべきではありませんね」
 
 景久さんは悲しげに微笑んで、私の頬に優しく触れた。

「僕を無視するあなたが恨めしくて、憎くて、それでいて今こうしてあなたと向き合っていると、嬉しくてあなたを滅茶苦茶に抱きしめたくなります。なんだというのでしょうね、この野蛮な衝動は……。苦しくてたまりません」

 私にそんなことを聞かれても困る。

「無視だなんて。人聞きの悪いことを言わないでくださいよ。無視をしていたんじゃなくて」


 特に用がなかったから電話しなかっただけです。と言いかけて、私は口をつぐんだ。さすがにそれはひどい言い草なのかもしれない。
 それに、これを口にしたら最後、今よりもっと景久さんにネチネチと因縁をつけられるような気がする。

 景久さんは私の飲み込んだ言葉を察したのだろうか。にっこりと微笑んで私の顔を手でつかんだ。自然、私の豊頬は彼の手の中で押しつぶされ、私の口は「う」の形のまま固定される。

「腹の立つ人ですね……。
 美穂さん、あなた僕のことは一切無視しておいて、彰久とはラインをしているでしょう」

「いだだいだい」

 私は別に、彰久を選んでわざわざラインをしているわけではない。

 広大な北条家に住んでいたころ、彰久と話をするのにいちいち家の中を探し回るのが大変だったから彼とラインを交換したのだ。

 その後、離婚時に北条家で借りてくれていた私の携帯を景久さんに返却し、新しい携帯を契約した。そこで北条家の面々との連絡は一旦絶たれたはずだったのだ。
 その後、なんとなくラインにログインしたらまた彰久から連絡があって、時々雑談をするようになった、というだけの話だ。
 当然ながら元夫のその更に甥である彰久とは色っぽい話など一切ない。主に会話する内容は晩御飯のことと学校の課題その他人間関係の相談ごとなどである。責められるいわれはない。

「僕ともラインをしてください。彰久と仲良く僕を裏切っていた以上、これはあなたの最低限の義務です」



 何それウッザ……。この人本当にこんな事を言うためだけにわざわざ偽の合コンまでセッティングしたのかしら。



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