コンプレックス



それから1ヶ月後の、深夜の事だった。唐突に、あたしを衝動が襲ったのは。

それは誰かがあたしに何かを言った訳でも、彼本人から聞かされたからでもない。自分で悟ってしまっただけだ。気づくのに遅すぎた。剰りに遅すぎた。
 


「心吏はいない」



確かに、ここ1ヶ月心吏から連絡がなかった。けれどそれはいつもの事で、フラ、っと何処かへ行ったと思ったらへらへら笑って、いつのまにか隣にいる。それが彼だった。だから今回も気にも留めてなかったのだ。


「心吏はもういない」


何故今になってそんなことを思ったのか解らない。けれどもう彼は2度とあたしの前に現れないだろうと、漠然とそう思った。

 
海へ行きたい。


そう思ったら居ても立ってもいられず、財布を無造作に掴んでタクシーをよんでた。あれはなんて海だったろう。駄目だ、解らない。きっと名前すらない海なんだ。


そう思ったら悲しくなった。心吏は名もない海で死んでしまったんだと、悲しくなった。心吏が生きていたのなら「勝手に殺すな!」とでも笑って怒っただろう。

「すみません、海へ行きたいんです」

「はいっ?海ですか、どちらの海ですか?」

深夜に海へ行きたいと運転手に言えば、あらかさまに怪訝な顔をされた。そりゃそうだ。女が一人で、夜の海へ連れてってと云うんだから。

記憶を手繰り寄せる。心吏はなんて行ってたっけ。あぁ、「白畠(しらはた)の…」呟いた言葉は頼りなく、自分でも心許なかった。運転手は「あぁ、白畠の」と意味深に繰り返して、車を走らせる。








海に着いたのは空気さえ蒼に染まる頃だった。目が冴えるような蒼に、別世界にいるのかと錯覚する。心なしか穏やかに見える海に心吏を捜した。


まぁ捜したところでおいそれと見つかる訳もないのだが。
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