冷徹なカレは溺甘オオカミ
きっと、彼も迷惑してる。……迷惑してるのに、こんなふうに、やさしくしてくれて。



「──うん、」



するりと、彼のネクタイを掴んでいた手を外す。

なぜか泣きそうになる目元に力を込めながら、印南くんを見上げた。



「わかった。印南くんの、偽彼女に、なる」



──まだ、ただの同僚には、戻りたくない。

もっと、彼のことを知りたい。

どうしてか今そう思ってしまっている自分は、颯真の言う通り本当にバカで間抜けでうかつなんだろうなって、頭の片隅で考える。



「……決まりですね」



つぶやいたと思ったら、印南くんはわたしの左のこめかみに、軽くキスを落とした。

突然の接触に、その無表情を見上げた体勢のまま唖然とする。

彼は構わず、さっさと壁とわたしの間から抜け出した。



「では、そういうことで。今後ともよろしくお願いします」

「なっ、え……っ」

「“偽彼氏”に対する要望等あれば、どうぞ遠慮なく。可能な限り善処します」



……善処って。やっぱり印南くんにとっては、これも仕事の一環なんだろうか。

なぜか、胸の中にもやもやとした感情が広がる。

その理由がわかりかねるわたしを、ドアの前で立ち止まった印南くんが呼んだ。



「……なに?」

「柴咲さん、言い忘れてましたけど」



ノブに手をかけたまま、彼がこちらを振り返る。



「その前髪、やっぱり似合ってますね」

「──、」



バッと、つい、前髪を手で隠した。

そんなわたしに小さく口の端を上げて、今度こそ印南くんは会議室から出ていく。

音をたてて閉まったドアを呆然と見つめてから、思わずその場にへたりこんだ。



「……な、なに考えてんの、アノヒト……」



彼のくちびるが触れたこめかみを手のひらでおさえながら、たぶん今の自分の顔は真っ赤で。

これからどうなってしまうのだろうと、ただひたすら、頬の熱を冷ますのに必死だった。
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