欲しがりなくちびる
「……ごめん。本当に何でもないの。ちょっと仕事のことで色々あって、おかしな態度取っちゃった。気にしないで」

朔は、気を取り直そうと深呼吸をしていつもの自分を取り繕えば、浩輔は納得いかない顔をしながらも彼女を解放する。

「メイク落としてくる」と伝えて朔はリビングを後にすると、洗面所のドアに背中を預けてその場に蹲った。

きっと二人は、どんなに近くにいても見えない透明なガラスの扉で隔てられていて、相手を見つけることはできても、決して手を触れることができない距離にいる。

それが相手を思いやる気持ちであって、ルールのようなもの。なのに、最近の浩輔はその扉をひょいと越えてやってこようとするから、剥き出しの心に触れられるのが怖かった。

その夜、朔は久し振りに一人で眠った。

シングルサイズのベッドなのにあまりに広く感じられて、隅っこで猫のように丸くなって眠った。一人で眠るベッドは凍えてしまいそうなほど寒くて、どうしようもないほどの寂寞感を噛み締めながら頭まですっぽりと毛布を被った。

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