欲しがりなくちびる
それぞれのベッドで眠るようになってから10日近くが経っていた。その間、浩輔が求めてくることはなかったし、彼はいつも通りの浩輔だった。

あの日、浩輔の腕を払ってしまったのは自分でも予測がつかない出来事だった。寄り添いたい気持ちはあるのに、無意識が浩輔を拒んでいた。他の女に触れた手で触られたくない。考えるより先に、瞬時に心が選択していたのだ。

浩輔との関係には、確固たる呼び名も形もない。だから浩輔を責める権利はどこにもないのに、朔は今にも叫び出しそうになる。あの大きな手のひらは、自分しか知らないでいて欲しい。苦しいほど切望しているのに、彼へと伸ばす手は躊躇われたままだ。


画家の相馬から連絡がきたのは、ショップで取り扱っている商品が掲載されている雑誌を購入するため、休憩時間を利用して近くの書店を覘いている時のことだった。夕食に誘われ、7時半に駅の東口で待ち合わせすることにして電話を切った。

朔は元々人見知りしない性格もあり、昔からこういった誘いを断ることはなかった。社交的だとは思わないけれど、全く異なる環境に身を置く人達がどんな生活をしているのか、どんなことに関心を持って日々過ごしているのかということに興味があった。だからといって、もし自分に別の人生があったなら……と、憶測することもなかったが、出来上がったコミュニティから飛び出してみたいという、空を旅する渡り鳥のような衝動は不規則にやってきて、昔からそれを持て余したりはしなかった。

朔にとって人との出会いは、新しい世界の始まりでもある。そして、それは恋愛のように、人生に彩りを与えてくれるということをどこかで知っていた。

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