欲しがりなくちびる
「どうしたの実加ちゃん。何か良い事でもあった?」

終業後、後輩の実加と駅に向かっていると、会話が途切れて間もなくして彼女がふんふんと上機嫌に鼻歌を歌い始めたからそう尋ねたのだが、当の本人は全く無意識だったようで、みるみるうちに頬を赤く染めていく。

朔の問いかけに慌てた様子で顔を覗き込んでくる実加にこの数秒の出来事を説明してやると、彼女はぐったりと項垂れる。

「すみません。自分で全然気付いてませんでした……」

「ううん。私はいいんだけど。彼氏と上手くいってるんだ?」

ちらりと実加へ視線を送れば、彼女は途端に頬を弛めて照れくさそうに笑う。

「鼻歌なんて歌ってれば分かっちゃいますよね? 何か最近、本当にラブラブで。無事にバレンタインデーも乗り越えて、何か本当に、絶好調って感じなんですよねー。こういうの久し振りだから、恋に恋しちゃってるっていうか、毎日お花畑にいるみたいでふわふわ浮かれちゃって」

嬉しそうに弾む声は、心から幸せを実感しているのだろう。目に見えるようで微笑ましい。 

「お花畑にいれば鼻歌も歌いたくなるよね」

「あ、店長。いま少しばかにしませんでした?」
 
悪気なく言ったつもりが、実加には違って聞こえたらしい。この調子だと、他のスタッフからもやっかみ半分にからかわれているのだろう。

「してないって。本当に幸せなんだなーって思ったの」

「本当ですかぁ? ……でも、そうなんです。幸せを噛み締めるってこういうことだったのか! って、正に実感してる最中なんです」

祈るように胸の前で指を組んで、零れんばかりの笑顔を向ける実加が、その素直さが、朔には羨ましい。

「良かったね。それで仕事もこれまで以上に頑張ってくれたら、私も嬉しいし」

釣られるように微笑むと、何故か実加はその表情を曇らせていき、仕舞いにはその場に立ち止まってしまった。
 
「あのぅ、店長。……もしかして、最近何かありました?」

通行人が迷惑顔で横を通り過ぎて行く様子を気に留めることなく、実加がじっと見つめてくる。


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