欲しがりなくちびる
翌朝、朔が目覚めると、浩輔は家を出た後だった。

リビングテーブルに書き置きはなく、スペアキーだけが置いてある。

喉の渇きを覚えてキッチンにあるワインセラーを開けると、そこにワインは一本もなく缶ビールと清涼飲料水しか入っていなかった。ワインセラーといってもキャリー式の冷温庫で、浩輔はアウトドア用に購入したものを冷蔵庫代わりに使っているようだった。

取り出したミネラルウォーターをグラスに注いでごくごくと飲み干すと、濡れた唇を手の甲で拭う。


浩輔は外で遊ぶことが好きな子供だった。放課後学校から帰ってくると、二人してよく近くの裏山まで遊びに行った。

いつの頃からか、浩輔は片手にスケッチブックを持って出掛けるようになり、お気に入りの場所を見つけると木の根っこに腰掛けて、風景画のデッサンを始めた。

朔はその隣で、虫の音を聞いたり、彼の指先から魔法のように生み出されるスケッチを見るのが好きだった。

鉛筆だけの白黒の絵なのに、浩輔の手にかかると木の葉の隙間から射しこむ木漏れ日だとか光りの加減が見事に再現されていて、目の前のどんなに鮮やかな緑よりもそれは色付いて見えた。

高校生になった浩輔は、週末になると家族に行き先も告げずにふらっと旅に出るようになり、その度に少し日焼けして帰ってきた。その頃の彼は油絵を描くようになっていて、デニムの太腿の辺りは絵の具を拭ったのか、カラフルなシミがいくつも付いていた。

朔はその色を見て、浩輔が何を描いてきたのかを想像した。

その頃の彼は、描いた絵を朔に見せてはくれなくなっていた。
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