欲しがりなくちびる
「もしかしてさ、私のこと励まそうとしてくれてるの? だったら大丈夫だよ。もうそんなに落ち込んでるわけじゃないから」

朔は受け取ったグラスをテーブルに置くと、用意していたトゥーセパレーターを右の足指に挟んでいく。

「たぶん、ほら。あれだね。行動が早かったからかな。あんまり傷が深くならないうちに逃げ出してきたのが良かったのかも。今回はしっかり防衛本能が働いてくれたみたいで……」

言いながら、親指から丁寧にベースコートを塗っていく。

「だいたいさ。この歳になって男の浮気も直視できない女ってどーなのよ? 自分だって浮気も略奪もしてきたっていうのにね」

段々と自棄になってきて自嘲気味に言葉を漏らせば、もう聞きたくたくないとばかりに頭上から深い溜息が聞こえてくる。

「もういいから、やめろよ。俺から話振っといて何だけど、あんま自分を苛めるな。シャワー浴びてくる」

遠ざかる足音。締められたドアの音を背後で受け止めながら、朔はその場に力なく崩れ落ちる。マニキュアの、つんとした匂いが鼻にくる。

溢れ出てくる涙は、きっと暢の為なんかじゃない。情けない自分に対する涙だ。朔はそう思いながら、ここにきてようやく暢への想いが紛れもなく本物だったということを知った。涙の一粒一粒は暢への想いでいっぱいなのに、彼をもう二度と信じることができない苦しさ。

それでも別れを決意できないでいるのは、結婚という言葉への執着なのか分からなかった。

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