欲しがりなくちびる
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暢に電話をした。 

指輪を返したいと言うと、彼は「分かった」とだけぽつりと呟いた。

今思えば、朔のなかに初めから答えはあったのだろう。

人目があるからとマンションで待っていて欲しいと言う暢に、住み慣れたはずの部屋の鍵を開ける。朔が持ち出した電化製品が置かれてあった場所は所帯なさそうにがらんとしていた。

暢は小さな冷蔵庫を購入していたが、浩輔も言っていた通り、電化製品がひとつふたつ足りないくらいでは、特に生活に困っている感じもなかった。

朔は部屋の奥へと進み、そっと寝室のドアノブに手を掛ける。

最初は躊躇われたが、力を掛けた弾みで開いた扉の向こうは、几帳面な暢が毎朝ベッドメイクするおかげで整然として、そこからはもはや何も感じとることはなかった。

それでも不意に、暢と重なり合う女の影を思い出してしまう。あれから、この部屋に女が出入りしている形跡はないようだった。

本当にただ魔が差しただけなのかもしれない。
いつも心穏やかな暢が、大胆な手口で自分を傷つけたなんて、やっぱり信じられずにいる。

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