欲しがりなくちびる
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相馬卓巳という五十代半ばの男性と知り合ったのは、朔が仕事帰りに立ち寄ったカフェでのことだった。

街路樹は色付き、景色はすっかり秋らしくなっている。歩道に面したテラスで、行き交う車のライトをぼんやり眺めながらホットコーヒーを啜っていると、やってきた彼は待ち合わせをしていたのか、店内に向かって手を挙げて合図をする。そして、朔の横を通り過ぎようとしたとき、椅子に置いていた彼女のバッグに相馬の身体が当たり、大袈裟な音を立てながら中身が飛び出した。

彼は、それを見て慌てた朔より一息早く身を屈めて拾い始め、「すみませんでした」と、喉を潰したみたいにしわがれた低い声で言いながら顔を上げると、今度ははっと息を飲み込み、食い入るように彼女を見つめる。

子犬のように円らな瞳から発せられるその視線があまりに不躾だったため、朔が露骨に不愉快な顔をして見せると、今度は目尻を思い切り下げてにこりと笑った。

「これは失礼しました。知っている顔にあまりにも似ていたものだからつい……。お詫びにという訳ではないのですが、今近くで個展をしているので、宜しければ遊びにいらしてください」

そう言って、相馬は鞄から一枚の名刺と‘invitation’と書かれた招待状を手渡すと、軽く会釈をして店の奥へと翻した。

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