まどわせないで
 陸にそんな思いをさせていることとは露ほども思わない小麦は、夢と現実の狭間でゆらゆら揺れていた。
 如月さんの、優しかった唇の感触が忘れられない。
 胸はドキドキするのに、 まるでわたしのいる場所はここなんだって勘違いしてしまうくらいしっくり収まる広い腕のなか。

 どうしよう。
 もっとそばにいたい。
 声を聞かせて。
 そして、触れて―――。

 もし、願いが叶うのなら。
 
「キス……触れて……」

 小麦の小さな呟きに、閉じていた目を陸は開けた。
 夢を見ているのか?
 肩に寄りかかる小麦を見ると、まつ毛が閉じている。
 うっすらと開いた唇。
 誰とのキスを夢見ている?
 相手は誰だ?
 このムカつくような気持ちは……なんだ?
 いや、嫉妬ではない。
 小麦は、俺のオモチャだろ。
 お前に触れていいのは俺だけだ。
 例え夢の中であっても、他の男に取られてたまるものか。

 陸は小麦の頬に落ちる柔らかな髪を後ろに撫で付けた。
 車道を走る車内の暗がりでも、漆黒のカーテンを払ったその肌が雪のように白いのがわかる。扇状に広がる長いまつげが頬に影を落とす。傷ひとつない滑らかな頬。
 怒ったとき、追い詰められて狼狽えたときに見せる、戸惑いの表情を思い出して自然と陸に穏やかな笑みが広がる。
 小麦の頭が乗る腕を背後から回して彼女の肩をそっと抱く。もう片方の手で顎を掴み僅かに上向かせ、顔を近づけた。

 俺は何してるんだ?
 そこに唇があったからキスしただけだ。

 思いとはうらはらに、大事な宝物を扱うように小麦を抱きしめた。



 唇に感じるぬくもりに、体を優しく包む安心感に、小麦の心は喜びで満たされる。

 ほら。
 恋人でもないのに――……

 このひとのキスは、触れる腕は、こんなにも優しい。
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