冴えない彼はメガネを外すとキス魔になります!
聞かなかったことにしよう。
何も知らないことにしよう。
一歩、二歩と後ずさりをする。
クルッと踵を返し走り出した時、飛び石から足を踏み外して、その回りに敷いてある砂利を踏みつけてしまった。
思いのほか大きな音を立てる。
「誰?!」
驚いた桃子さんが声をあげた。
みつかってはいけない。会話を聞いていなかったことにするんだから。
どこをどう駈けて来たかなんてわからないまま、とにかくあの場から離れなくてはと言う思いで竹林の中を無我夢中で走ってしまった。
もう大丈夫だろうと立ち止まり、後ろを振り返る。
誰も追ってはこない。
しかし辺りを見渡して絶句した。
「ヤダ…ここどこ?」
景色はほとんど変わってない。
竹林の中だ。だから余計に自分がいる位置関係がわからない。
元々、方向音痴なのに何も考えずに走ってしまった。
「旅館の敷地内なのは確かだけど…」
片手に握りしめたスマホを亮介の番号をプッシュする。
しかしコールは鳴らず、画面が元に戻ってしまう。
「あれ?あ!電波が無いじゃん!圏外なの?」
どうしよ…
とにかく動かない方がいい?
いや、山の遭難じゃないんだから。
でもどっちに行けば?
さっきまで陽が暮れるのが遅いなと思っていたのに、だんだん西の空に太陽は消えて行く。
「新婚旅行で遭難死なんてシャレになんない」
とにかくこの竹林から抜け出さなくっちゃ。
そう思い歩き出そうとしたとき、砂利を踏む足音がした。
少しずつ近づいて来る。
「あ、誰かいる…助かった?」
そう思ったのも束の間。
竹林をガサガサと割って近づいて来る陰が見えた途端、安堵から恐怖へと変わる。
その影は背が高くて大きくて。
「え?もしかして…熊?熊が出た?ヤダ、どうしよう」
その陰はどんどん近づいて来る。
「そうだ、寝たふり・・・じゃなくて死んだフリ、死んだフリしなくっちゃ」
小さくしゃがんでその場に横たわり、目を瞑って呼吸を止める。
視界が妨げられると聴覚がやたらと研ぎすまされる。
どんどん近づく足音。
心臓が壊れるくらい早く動き、こんな切羽詰まっている状況なのに、熊の足音は人間と近いんだなとか妙に冷静になる。その足音が自分の横まで来たことがわかり、冷や汗が出て来る。
(呼吸は止められも、汗は止められないよ…汗の匂い…熊って嗅覚も鋭いのかな?もうダメかも)
大きな陰が私に覆い被さって来た事がわかった。
嗚呼、ダメだ。
止めていた呼吸も限界だ。苦しい…
(亮介…ああ、神様…私、新婚なの…)
「ヒューーーーー!!!!!!!!」
息を止めることが限界で、酸素を思い切り吸いながら、目をパチッと開ける。
私に覆い被さって熊と目がバチっと合った。