阿漕荘の2人

November November 5

練無side

しこさんはいつもと違っていた


彼女はそれを楽しんでいるようだった



彼女の右手はとても小さかった



たぶん、これ以上力を加えれば指が折れてしまう


それぐらい、頼りない右手だ



ビートルの助手席のドアを開ける



指と指が離れる


どちらが離したのだろうか



彼女は何も話さない



僕もビートルに乗り込む



まず息を大きく吸って、気分を落ち着かせる


サイドブレーキをはずし、アクセルを慎重に踏む



太いハンドルを握る



低いエンジン音が、シートを通して背中から伝わる


僕はこの時間が好きだ



ただ単純にそう思う



しこさんは窓の外を見ていた



絵に描いたような澄みきった秋の夕焼け空を見ていた



このまま、彼女を連れ出してしまいたい



でもそれは出来ない



僕たちには帰る場所がある




この時間は永遠ではない




「れんちゃん、空がとっても綺麗なん

雲がひとつも無くて………」


「まるで、寒天みたいに?」


「カンテン?」


「澄み切ってる。弾力もありそう」



「うちはゼリーの方がええな」


「どうして」



「ロマンティック」





長いトンネルを抜けて、高速に乗る


メーターは時速90キロ



ビートルの速度が上がるにつれて



目の前の視野はだんだん狭くなる



それでも、右手を見れば彼女と目が合う




それだけでいい




それだけで満たされる



今、ビートルを何処かにとめて



彼女の肩を引き寄せ、キスをしたい




そうしたらどうなるのだろう



彼女は怒ってドアを開け、飛び出てしまうだろうか?



それとも
僕の背中に手を回してくれるだろうか?





馬鹿だな………………僕は



そんなこと、わかりきっているのに







たぶん、僕は弱くなった…………



でも弱い自分は嫌いじゃない………



彼女さえいれば それだけでいい



「まだ何か隠してるやろ?」


彼女は言う


僕は答える



「どうして」





「いつもより大人しいのは

いつ話そうかって、タイミングを見計ら

っているから………」




「それは……………お互いさまだね」





「それもそうやな…」



彼女は静かに頷く



「僕はいつもタイミングを見計らっているよ


いつもいつも、打ち明けたいことばっかりで

胸が張り裂けそうなんだから………」





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