十一ミス研推理録2 ~口無し~
 刺された男に意識はあるのだろうか。夥しく出血している腹を押さえながら、荒い呼吸を繰り返していた。すでに致死量近い出血をしているらしく、見開かれた瞳は天を眺め、蒼白の顔には生気がない。
 現場を直視した会社員は警察に通報しようと、懐に入れていた携帯電話を出そうとした。
 しかし、途端に息をとめると、金縛りにあったかのように動けなくなってしまった。
 足取り覚束ない状態で、ふらふらと男が向かってきたのだ。
 人殺しの現場を見てしまった上に、真正面からくる異様な影を纏った男。
 誰が見ても思うだろう。こいつが犯人に違いない。では、唯一の目撃者である自分は、どうなってしまうのか。口を封じられてしまうではないか。
 しかし、犯人と思える男は会社員を素通りした。そのまま、何か目的があるかのようにゆっくりと大通りに出て進んでいく。
 会社員はあまりの恐怖で腰を抜かすと、犯人であろう男の動きを眺め続けた。
 男が向かう先には、遮断機が降りはじめた踏切がある。心臓が波打つリズムにも似た警告音と、血の色にも見える左右に点滅する赤色灯が、電車がくることを告げていた。
 会社員は覚束ない足取りで向かう男を見て、まさかと感じ取った。慌てて立ちあがると、携帯をつかんでいるのも忘れて駆けた。
 が、思い虚しく、遮断機を潜った男は、線路上に足を踏み入れていた。
 覚悟を決めたように目を閉じた男が、手に持っていた何かを後ろポケットに捻じこむ。
 こうなってしまえば、助けにいくのは無謀としか言いようがない。
 冷静に、そう判断した会社員は、踏切に設置されている非常ボタンを押した。直後に異常を感じ取った電車が突っこんでくる。
 距離は数百メートルもないだろう。鼓膜を激しく揺らす警笛音と、心臓が潰れそうなブレーキ音を立てながら、電車は男に迫っていく。
 微かな願いは叶わず、無常にも電車は男を呑みこんだ。それでも急停車の残響をレール上に置きながら、数十メートル先まで進んでいく。完全に停車するまでの時間は、数刻ほどだったろう。
 しかし、目撃者である会社員は、まるで特殊相対性理論をも打ち立てるかのような、数百倍もの時間の歪みを感じていた。
 一分後には先程の騒ぎが嘘のように、踏切の音だけが響く時間が訪れた。
 間近にある駅構内から、『只今、電車が急停止しました』。という放送が流れる。
 先頭車両にいた乗客の何人かは、衝撃の瞬間を目撃したに違いない。手で口を覆い隠す女性や、状況を確認しようと窓にへばりつく者の姿があった。
 すぐに電車に呑みこまれた男の安否を確認しようと、運転手と車掌が駆け降りてくる。
 電車前方についた血痕が、現場の壮絶さを物語っていた。誰もが男は死んだと思った。
 しかし――
「おい、まだ息をしているぞ。救急車!」
 電車の隙間に挟みこまれるように倒れ伏している男を、確認した運転手が声をあげる。車掌は慌てて携帯電話を取り出すと、無線連絡もするために車掌室に戻ろうとした。
 現場は一瞬にして戦場となった。運転手は下にいる男に向かって声をかけ続けている。
 現場の一部始終を見て呆然としていた会社員は我に返ると、携帯電話を手に叫んだ。
「車掌さん。救急車は二台呼んでくれ! あっちの路地で大怪我している人もいる」
 車掌は足をとめて会社員を見た。
「二人?」
 状況を把握できないまま問い返す。
 同時刻、同現場で起きた殺人事件と自殺未遂。
 殺人事件は閑静な住宅街の住民たちを恐怖に陥れ、飛びこみ自殺は帰宅時間に追われた乗客数万の足に影響した。
 遠くでは、警察車両のサイレンが鳴っているのが聞こえていた。
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