アクシペクトラム

商談ですね

給湯室で後片付けをしていると、終業を知らせる音楽がフロアに鳴った。
比較的残業がない会社なので、特に急ぎの仕事をしていない社員達は次々と帰る準備をする。
私も自分のデスクに戻って帰り仕度をした。

エレベーターで1階まで降り正面入口まで来ると、そこには先ほど会議室で見たスーツの男性が、こちらに背中を向けて立っていた。
龍宮さん…
うちの会社との商談がスムーズに終わったのか、ちょうど帰るところだったようだ。
一応さっきも会ったし、挨拶だけしてみようかな…
龍宮さんの背中に近づこうとした途端、龍宮さんが鞄から携帯を取り出す。
どうやらどこかに電話を掛けるようだった。
仕事のジャマしちゃ悪いよね…
私はその背中に声を掛けるのをやめる。
どうせ私のことは覚えてないだろうし、うちの会社の人間はいまこの辺りに大勢いるのだから、私ひとりが声を掛けるのは逆に不自然だろう。
俯いたまま龍宮さんの横を通り過ぎようとした、その時―…
ピリリッピリリッ―
私の携帯が鳴った。
咄嗟に足をとめて画面を確認すると、そこには見慣れない番号が表示されていた。
「もしもし…?」
誰だろうと思いながら応答ボタンを押すと、
「先ほどは失礼しました」
えっ…
トクンと鼓動が音をたてる。
携帯からの声と、すぐ横からの声が混じって二重に聞こえた。
「龍宮です」
「は、はいっ」
私は思わず、今まさに通り過ぎようとしていた横の人を見上げる。
すると、龍宮さんの方も声が二重に聞こえたのか、不思議な顔をして私を見下ろした。
「もしや佐藤さんですか…?」
「そう、です…」
携帯から耳を離し、龍宮さんが真っすぐにこちらを見つめる。
私も携帯を切ってその瞳を見つめ返した。

< 12 / 30 >

この作品をシェア

pagetop