柴犬主任の可愛い人
「――ご自宅は、このあたりかしら?」
そっと、店内にある壁掛け時計を気にしながら女将さんが訊ねてくれたので頷き返した。終電を気にしてくれたんだと思う。そういうの、今日は特に沁みるなあ。
「はい。ここからすぐ近くなので。ありがとうございます」
「あら。なら柴くんともご近所かしら。会社も同じなんて、これもご縁ねえ」
「えっ、そうなんですかっ!?」
驚いた。主任とは、この界隈で顔を合わせたことなど一度もなかったから。
「それにしては通勤でも顔を合わせたことないですね」
「ですね。全く」
よくよく話してみると、私の自宅やこのお店がある駅の西改札口じゃなくて東改札口方面にお住まいらしい。決める際、こちら側にいい物件がなかったのだそう。けど、ここに入り浸ってるだけのことはある。私がよく行くスーパーやドラッグストア、カフェやケーキ屋さんまでも熟知してた。
「じゃあ、神田さんが今日ここに来なければ、鉢合わせも一生なかったかもしれませんね。でもすみません。僕がいては寛げないでしょうが」
「そんなことはっ。……そりゃ、まさか主任がいらっしゃるなんてかなり予想外で驚きましたけどそんなことは。私こそ、お寛ぎのところ申し訳ありません」
「いえ、僕は全く――いい店なので、これからも来てやって下さい」
まるでオーナーのように主任が言うものだから、主任はまた店長さんから強目つむじチョップを受けていた。
「ずっと、気になってたお店なんですけどなかなか勇気もなく。思いきって今日は扉を開けました」
「女の子ひとりでは入りづらいですよね」
曖昧に相槌を打つ。すると、それを気にした女将さんは、店長さんと相談を始めてしまった。だから店内は少し外から見えるようにしておけば良かったのだとか、いい加減店長さんの人見知り(やっぱりそうか)をなんとかしろだとか。相談じゃなく、それはお説教に移行してたけど。
やっぱりご夫妻というものは、女性が強いところが多いなと、母や周囲の人たちを思い浮かべた。楓さんも、そうなるのかな。あそこは榊さんがいかにも弱そうだし、楓さんが回していったほうが円滑に決まってると思う。
なんて、どこの夫婦の深部までも知らないのに勝手に想像を膨らませた。