柴犬主任の可愛い人
そんな帰り道、恒例の柴主任による私のアパートまでの送還は、さっきの洗面所鍵付き住宅の件を引きずりながらの笑い溢れるものだった。
「私にとっては切実ですよっ。友達との旅行でも苦労してるんですから」
「気にしなくてもいいのでは?」
「毎朝毎朝、涙を流しながら、時には口から漏れる液体で顔をべったべたにしている姿を、好きな人には見せたくないじゃないですか」
「へぇ。じゃあ、ご家族以外には見せてないんですか」
「私だってデリケートな部分はあります」
「知ってますよ。ちょっと斜め上なときもありますが」
「……」
会話が途切れたところでちょうどアパートにたどり着き、私はいつも通りに頭を下げる。この瞬間が好きだ。表情を知られることなく、柴主任に向く感情を顔に出して声を発することが出来る。
「いつもありがとうございます。気をつけて帰って下さい」
同時にそのときの柴主任の顔は見れないけど。視界に入るのは、いつも綺麗な革靴の足元。
「青葉さんはいつも丁寧ですね。そんなの必要ないのに」
では。さようなら。立ち話をすることもなく、そこで解散となる。暫くその場で振り返ってくれることのない柴主任の背中を見送り、ダッシュで部屋に戻ってさっきまでいた道側の窓を開けてみる。いつも。送ってもらった日は。最後の最後までその姿を見てやろうとしたその試みは、いつも失敗している。
歩くスピードが早いらしい柴主任は、いつも私が部屋に戻る頃には視認出来る範囲にはもういない。
好きだと、柴主任のことが好きだと自覚してからの私は、笑っちゃうほど乙女チックで、そしてとても穏やかに恋をしている。
決して想いは告げないと膜を張ってのそれを、柴主任が誰かと幸せになる日まではと浸ることにした。汐里には呆れられてるけど、放置してくれている。
今日、柴主任にまだ“そういう人”はいないと知り、安堵した自分を戒める。
いつもどんなときも、あの人が少しでも早く、幸せになってしまえるように願える自分にならねばと叱咤して、
この狂おしくはない恋に今は沈み込み、眠る。