柴犬主任の可愛い人
 
 
その日、残りの時間をどう過ごしたのかは覚えてないけど、他からクレームがないところをみると、どうやら無難に職務はこなしてたみたいだった。ルーチンワークしか残ってなかったから助かったんだろう。


九月から始まったノー残業の木曜日。それは今日もで、定時上がりのその日、私はいつもより遅いスピードで駅まで歩いて、そうして家路への電車に揺られている。


運よく座れた車内。私は茫然自失といった感じで、自分がどこを見ているのか、今いったい何をしてるのかも時折わからなくなっては、我を取り戻す。


とりあえず少しでも早くひとりになりたい。中の神経が悲鳴を上げてるのに、貼り付いた適当な笑みが今も顔面から消えてくれなくて、そこから私が崩壊していってしまいそう。


ああ、でも、それもいいかもしれない。


駄目だ。今から、伊呂波に行くんだから。


私の手にはスマホが握られていて、そこには新着メッセージを知らせる緑色が点滅している。


――今夜、呑みませんか?――


初めてから、もう一年と半年近くになる伊呂波での夜のひととき。そのほとんどはお互いに連絡することもなく、どちらかが居ない日もあれば、はんぶんこ同盟が発動する二人揃うときも。柴主任から、こうして私宛にお誘いがあるのは、片手くらいはあったかな。


早くひとりになりたいのに。今一番会いたくない人に、会いたいから私は返事をようやくする。メッセージが届いたのは、私が電車に乗った直後だった。ずいぶん放置してしまった。


――はい。伺います。――


駅の改札を抜ける前にお手洗いに立ち寄り、鏡を覗く。そこには、違和感のある笑顔に少し顔色を欠いた私がいる。


なのに伊呂波へと向かう足が早まってしまうなんて、私はとんだ被虐趣味なのかもしれない。


狂おしくはない、膜を張った想いは、徐々に、その膜が剥がれてきているのを感じながら、私はそれでも会いに行く。


出来うる限りの平静を纏って、伊呂波の暖簾をくぐった。


< 120 / 149 >

この作品をシェア

pagetop