柴犬主任の可愛い人
そうして私はキレた。
……………………、
「神田さん、広瀬くん……今日、何処かでご飯でも食べていきませんか……?」
「え…………っと……、すみません今日はちょっと……」
「そうですか残念です。……、残念ですが、今日はちょっと二人に残ってやってもらいたい仕事が出てきてしまって。――大丈夫です。帰れなくなっても責任はとります」
馬鹿じゃなかろうかこの人はっ。知ってるよね!? 今日は予定があるって。
退勤処理を済ませて、さあ買い出しに行こうと気持ちを切り替えた直後、まだ帰る気配のない柴主任は、広瀬と私を誘ってきた。
何がしたいかわからない。しかも、ご飯誘ったあと残業振ってくるなんてとんだご乱心だ。
広瀬だって困っている。そりゃそうだ。――知ってるよね、今日は鍋パって言ったよね? なんて上司には言えず、隣の私に首をぎぎぎと動かして助けを求めてくる。エレベーターの中でのいつもと違う不穏さを纏った柴主任に戸惑っていたし、今の上司からも何かしら威圧を感じているだろう。いつも穏やかな人だからこそ。
少し離れたところでは、会の副会長である先輩も事の顛末を心配そうに見守っていて。他にも残っている人たちは会のメンバーがほとんどで、どんだけ甘やかされてるんだと呆れる。
柴主任の顔はもう蒼白じゃなかったけど、いつもの柔和な、職場仕様とは違って嫌な顔だ。この中のいったい何人、それを理解しているんだろう。
ずっと守っていた境界が滲んで曖昧になっていくのを、私は気づいていなかった。
「――いいよ、広瀬は先に帰って」
「はっ?」
庇うみたいに、私は固まる広瀬より一歩前に出た。
にこりと笑って上司の命令を慎んでお受けする。
「柴主任。残業は私だけでお願いします。広瀬は今日、大事な用があるのでどうか帰らせてあげて下さい」
「……」
「広瀬。私あとから合流ね。這ってでも絶対行くって、汐里に伝えといてよ」
その頃には、私たちの周りの空気だけが、外の雪よりも冷えていて、周囲からとても注目されていたと、後に広瀬がら聞く。
嫌みったらしく、息をつかれた気がする。そうして、まるで私が駄々をこねたみたいに、柴主任はものわかりのいい上司に擬態をして言ったのだ。
「……仕方ありませんね」
そうして私はキレた。
「はあっ!?」