柴犬主任の可愛い人
「……なんの憂さを晴らしてるのか知りませんが、とってつけたような残業押し付けておいて仕方ありませんねってなんですか? ――ほら、さっさと残業しましょう柴主任。私だって仕事早く終わらせて友達のとこに行きたいんですから」
「……、そうですか」
「っ、神田……おまえ……」
「それでいいですよね。柴主任」
キレたはキレた。けど、声を荒げることなく静かにキレたはずのそれを、私たちを見守るうちに帰り支度の手を止めてしまっていた人たちには、充分聞こえてしまっていた。
おそらく私の予想通り、帰りたがらない柴主任が、穏やかで公平である人が、とってつけたような残業を命令しやすい部下に無茶振りしているのを、そして、普段は暴走こそたまにするものの、必要ない反抗はしない私が、いくら命令が理不尽だろうと一気に沸点高くして上司に噛みついているのを――その両者を見て、何かあれば止めに入り、仲裁しなければという優しさあっての周囲だから、そこにいちゃもんはつけられないんだけど。
数人が残る職場内が静まり返る。私の言葉を最後に。暖かな室内が、まるで外の雪がここにも降るみたいに、冷たく寒々しく、音のない。
結構泣きそうで、辛い。なんで私、柴主任にこんな態度とっちゃってるんだろう。
もっと普通でいたいのに。
以前みたいに、近すぎなかった上司と部下に戻るために引いた境界は、私の未熟さのせいで台無しだ。ごめんなさいと謝りたくても、態度は頑なで苛ついたまま。
「わかりました。では神田さんだけで」
やがて、ため息をつきながらの柴主任が頷く。私よりは周りを気遣ってか、幾分嫌味を取り除いた声色で私に了承をした。
「……ありがとうございます」
「ですが、その前に少し話をしましょう。――会議室へどうぞ」
上等だ。どうせ上司に対する口のききかたとかを怒られるんだ。それなら怒られてやる。
広瀬を始め、みっともないところを見せてしまったことを残っていた人たちに詫びて、ちゃんと謝ってくると安心してもらってから、先を行く柴主任のあとを追った。