蜜愛フラストレーション


軽々と投げ飛ばされた時点で、それが脅しでは済まないことくらい分かる。複雑な表情で言葉を呑んだ彼は、そこで彼女に屈したようだ。


一気に大人しくなった松木さんの腹にヒールをめりこませながら、立ち尽くす私へとその視線を寄越した。

「このままで悪いけれど。貴女はまず服を整えて。冷凍庫に保冷剤があるから頬も冷やすといいわ。それから病院に行きましょう」

淡々とした口調に相変わらずの無表情ではあるけれど、確かな気遣いと温かみを感じられた。


「……っ、」

険の取れた彼女にまずは、“すみません”と返そうとした。それなのに、……声が出ない。

さっきまで普通に話せていたのに、今まで頼りなくても武器だった喉に生じるこの違和感は……?


「……ッ、」

咄嗟に首元に触れて喉から絞り出そうとするが、その度に喉が締まる感覚がして、口からは大きな吐息が漏れていく。

まるで迫り上がる感情を喉で打ち止められたかのように、声で伝えることが叶わない。何度試してみても結果は同じ。

——先ほどまで当たり前に出ていた声が、発声の仕方を忘れたように音を失っている。

ずっとこちらを窺っていた紀村さんも異変を察したようで、情けなさで視線は床へと落ちていく。

どれだけ頑張っても、“あ”とも紡げない。歯がゆい現実に、カタカタと身体が小刻みに震えてきた。


そこで凛とした声で呼ばれたので、おぼろげに顔を上げると、彼女は真面目な顔でこう諭してくれる。

「安心して、言いたいことは分かるわ。とにかく服を整えて、頬を冷やして。……今は動けないから」

混乱する中でその言葉は優しく耳に入ってきて。理解出来たとコクンと頷き返した私は、のろのろとブラウスのボタンを留め始める。


焦って声を出そうとしたせいか、頬と口内の痛みがぶり返す。触れられた箇所の感覚だって今も鮮明にある。

冷静になるほど、その気持ち悪さで呼吸が速まっていき、深呼吸をしてギュッと目を閉じた。

自分の身体なのに、そうと思えないほど自由は利かず。頭から離れない恐怖と苦しさと恥ずかしさが堪らなくなる。

少し落ち着いたので目を開く。そこで捉えた手首には痣の痕がくっきりと残っていて、やるせなさで泣きたくなってきた。


どうにか涙を我慢できたその時、「萌ちゃん」と“あの声”で呼ばれて。——今まで襲われていた事実に引き戻される。

瞬時に不安になるほどに手は震え、全身から血の気が引いていくように、何も考えられなくなっていく。


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