蜜愛フラストレーション


せめて声が出ないことは悟られたくない。たとえ時間稼ぎだとしても、彼にこれ以上のダメージを与えないように口を閉ざした。

「課長と北川さん、もう少し静かにいらして下さい」

突然の介入にもかかわらず、さして驚きを見せなかった紀村さんが平然とした声でふたりを咎める。

「……紀村、それは」

「ああ、“これ”につきましては然るべき状態かと思いますが?それとも完膚なきまで心を折るべきでしたか?
問い質したいお気持ちは分かりますが、課長まずは代わって貰えませんか?一刻も早く取り押さえて頂きたいです。
身の危険を感じながらも必死に手加減した私がか弱い女性であることをお忘れなく。あ、不能にし損ねたことは大変心残りです」

抑揚のない口調で容赦ゼロの言葉を連ねていく。カツン、と床をヒールで蹴る音が響き、それも彼女の苛立ちを表していた。

はぁ、と大きく嘆息した課長が、「……とりあえず起きろ」と松木さんに声を掛けるのが聞こえた。

か細い声で返事をした松木さんの動作が背後から伝わってくるものの、そちらを振り向くことは出来ない。

震える手を握って耐える私の目の前で屈んだ優斗は、ひどく心配そうな面持ちで顔を覗き込んでくる。

上手く笑えないでいると、彼がジャケットからハンカチを取り出し、そっと私の手を取って握らせてくれた。

困惑して顔を上げれば、眉根を寄せて何かに耐えるような彼と目が合い、私は逡巡しながらも頭を小さく下げた。

言葉で虚勢を張ることも、取り繕うことも叶わない。無力を嘆く前にこの場ではせめて同僚らしく振る舞おう、と。


手の中にあるネイビー色のハンカチを握り締めた私は、おずおずと涙の跡を拭い始めた。

殴られた頬はピリッと痛むものの、ウッディな香りが鼻腔を掠めると、ホッと心が安らぐのを感じた。

それでも前方から向けられる優斗の視線が突き刺さり、居心地の悪さを覚えてしまう。

少しして探るような視線が逸れた瞬間、彼が大きく目を瞠った。

その、優しい茶色の瞳が、私の首筋や手首に残る様々な痕を何度も目で追っていた。

苦渋に満ちた優斗の顔が見ていられなくて、私は俯きながら手を後ろに隠す。今もズキズキする口内と頬よりも、心の痛みが凌駕していた。

首筋を執拗に触られたから、キスマークでもついているのかもしれない。そう思うと、なおさらこの汚い姿を晒したくなかった。

間違っても優斗は責任を感じないで。迷惑ばかりかけてごめんね。——どれだけ気持ちを伝えたくても、失った声は空気に掻き消されていった。


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