蜜愛フラストレーション
結局、私たちは歩く気も削がれ、その場でタクシーを止めて乗り込んだ。
彼が行き先を告げると、車内にはいつになく重い空気が流れていた。
互いを責めることなく、淡々と無の時間が流れていて。たった数分がやけに長く感じられた。
住宅街に入ったタクシーが目的地に到着し、ハザードを点灯しながら停車。サッと会計してしまった彼に促され、私も車外へ出る。
目の前にある建物こそ、私たちが目指していた北川氏の自宅だ。
駅から少し離れた立地にある8階建てのデザイナーズマンションは、白を基調としたシンプルな外観が目を引く。
その場に佇んでいると、急かすように腕を掴まれた。目の前を歩く彼の背中を追うようにエントランスを通過し、そのままエレベーターに乗り込んだ。
私たちを乗せたエレベーターが動き始めると、そこでようやく手を解かれる。隣に並んでいるのに会話はない。その気まずさで私はずっと顔を上げられずにいた。
上昇していたエレベーターが7階で静かに停止すると、今度はそこで肩を抱かれて扉を潜り抜けて行く。
このマンションはペントハウス以外、各階3部屋のみ。エレベーターから最も遠い部屋のドアに彼が手をかける。その扉はキーレスのため、音が鳴って解錠された。
扉を開けたまま待つ北川氏に視線で促され、小さく頭を下げて中に入った。
バタン、と性急にドアの閉まる音が響く最中、私の身体は後ろから抱き寄せられていた。
その場で反発して足掻いてみるが、コツンと無様なヒール音が静寂にひとつ鳴り、掻き抱く力を強められただけ。
密着するほどに彼の香りや呼吸音が感じられ、気まずさも手伝って鼓動が速まっていく。
「萌……」
熱の籠った声音で呼ばれ、反射的に身構えてしまう。一方の彼は反応を窺うように口を閉ざし、再びその場に沈黙が降りた。
これは焦っているのか、はたまた弄んでいるのか、それとも……。
次第に身じろぎも叶わない状況での困惑に疲れを感じ、ふぅ、と小さく息を吐き出す。
そこで未だに拘束を続けるその腕に触れると、ツーと指先でなぞりながら尋ねた。
「今夜は“ここ”なの?」
まさか前戯もなし?、などと冗談めいたひと言を加えて。