やさしい恋のはじめかた
 
彼女たちの声を聞きながら、私の胸はまるで心臓を直接手で鷲掴みされたような衝撃でドクドクと嫌な音を立てながら鼓動を刻んでいた。

全身からサーッと血の気が引いていく感覚はこれまでにも何度もあったけど、これは桁違いに強いもので、どうにも立っていられず、壁に手を付いてズルズルとその場にへたり込む。

全身からわっと冷や汗が吹き出し、心臓はよりいっそう早鐘を打ち続け、意識を保っているのもやっとという状況に生命の危機すら感じる。


「上谷部長の娘ってどんな人?」

「詳しくは知らないけど、綺麗な人だって」

「そっかぁ。河野さんイケメンだし、きっとお似合いなんだろうなぁ。子供とか生まれたら、どっちでも目を惹きそうだよね」

「あ、それ分かるわー」


それでも彼女たちの話は止まない。

私が個室にいることにはまだ気付いていないようだし、もし気付いていたとしても、そもそも大海の彼女が私ということは知るはずもない。

だって、誰にも秘密の社内恋愛だ。

彼女たちが『浮いた話がなかった』と言った通り、本当に私たちの関係は内密なものだもの。


ああもう……。

どうしてこうタイミングが悪いんだろう。

散々お喋りを楽しんで出て行った彼女たちがいなくなると、なんとか個室から出て鏡の前へ向かい、勢いよく水を出しながら手を洗う。

本当は頭から冷水を浴びたい気分だったけど、さすがにそれはできないので、その代わり濡れて冷たくなった手で両頬を覆って、せめて気分だけでもと思い、冷水を浴びた感覚を求めた。
 
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