やさしい恋のはじめかた
 
すぐさま頭を抱えてその場にうずくまりたい衝動に駆られて、けれど今は仕事中だと思いとどまり、足に力を入れる。

言葉も出ないでいると、いったん撮影が中断したようで、「おーい、髪、直してくれるー?」とスタッフから声がかかった。

すぐに「今行きます」と答えて壁から背中を離した桜汰くんは、まったく切り替えのできない私とは違い、もうすでに仕事の顔。

今まで見たことのなかったそれは、驚くほど精悍で、真剣で、仕事に対する誇りやプライドがありありと感じられる、そんな顔だった。


ああ、これが本気で仕事をしているときの桜汰くんなんだ……。

場違いにもそんなことを思いながら、すっと引き締まった横顔を見つめる。

すると、なぜか急に桜汰くんが遠くに行ってしまうような錯覚を覚えて。


「え?」

「……え?」

「里歩子? 手、どうした?」

「え。あっ、ごめん。……ごめん、なんでもない」


自分でもよくわからないまま、ほとんど衝動的に桜汰くんのシャツの裾を掴んで引き留めてしまっていた。

今のはいったい、なんだったんだろう?

ぱっと手を離し、笑ってやり過ごしたけれど、「とりあえず行ってくる」と言い残して駆けていった桜汰くんの背中を呆然と見つめながら、とっさに引き留めた自分の行動に違和感しか覚えない。

初めて仕事をしているときの桜汰くんを見たから? プロなんだって今さらながら身に染みて、置いていかれそうな気持ちになったから?
 
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