GREEN DAYS~緑の日々~
曲が終わった後、洸は拍手に包まれていた。瑞恵のテーブルで二人グラスを傾ける。煙草に火を点けて、それを美味しそうに吸って、瑞恵と笑いながら、笑いながら…。

 夏穂は無表情のまま二人に近付いた。

「夏」

瑞恵は驚きの声を出した。洸も振り向いた。

「いやだどうしたの。こっちいらっしゃい」

夏穂の様子がおかしい。洸は立ち上がった。瑞恵が呼びかける。

「夏?」

次の瞬間、夏穂は店のドアを開け、もの凄い勢いで外へ飛び出した。洸は慌てて追いかけた。瑞恵はその場に立ち尽くしたままでいた。



 夏穂は夜の街を走りながら思っていた。自分はなぜ飛び出したのだろう。そしてなぜ走っているのだろう。答えはわかっている。洸が瑞恵と二人でいる所を見たくなかったのだ。母親から瑞恵がクラブに行っていると聞いた時、殆ど反射的にここまで来てしまった。洸が瑞恵と二人で会っている。それが気に入らなかったのだ。だけどどうして?、でもどうして?

 夏穂はふいに立ち止まった。ふと横を見るといつも通っている自転車屋の前だった。主人と鉢合わせになる。

「あれ、夏穂ちゃん」

「おじさん」

「自転車取りに来たの?、こんな遅くに」

「あたし、」

「ああ、明日早くから使うんだね。いいよ、出してあげるから。ちょっと待ってね」

夏穂は呆然とその場に立ち尽くしていた。何だかわからない胸の痛み。暗い夜の道には店の蛍光灯の明かりだけが響いている。後ろからやっと洸が追いついた。店の主人が夏穂に自転車を渡した。

「じゃあこれね」

「お金…」

「お母さんから貰ってるから、気を付けて帰るんだよ」

 夏穂は頭を下げて自転車に乗らずにそのまま押し出した。店のシャッターの閉まる音と、後ろから追いかけて来る洸の足音。夏穂はその二つの音を耳に響かせながら歩いていた。

「おい、待てよ」

夏穂は止まらない。

「待てったら」

洸は少し声を荒げた。

「夏穂!」

夏穂は初めて足を止めた。洸が初めて名前を呼んだからかも知れない。立ち止まる。その場に立ち止まる。

「どうしたんだよ」

「わかんない」

「わかんないって」

「わかんないって言ってるじゃん!」

口を尖らせている夏穂の横顔。洸は息を飲んだ。いつもの表情とは違う。夏穂は何も伝えない。洸に。自分に。夏穂は知っているのだ。伝える事の難しさを。伝えられないもどかしさを。洸はほんの少し微笑んだ。

「貸せよ」

 洸は自転車に跨った。夏穂は後ろに飛び乗った。洸の腰に掴まる。二人は夜風を切って走り出した。それを国人が暗い道の上で一人見ていた。



 洸は夏穂を後ろに乗せ、自転車を漕ぎ続けていた。夏穂の家へ向かう途中の南橋の上から、眼下に広がる狭い町並みを見つめる。小さな商店街や人々の家のそれぞれの明かり。

「蜉蝣みたいだな」

「え?」

「浮かんでは消えて行く。そのまま。なあ、お前、前に蜉蝣みたいな人生がいいって言ってたじゃん。それはやっぱり蜉蝣に失礼だな」

夏穂は何も答えなかった。今の夏穂にとってはそんな言葉などどうでも良かった。洸と二人でいる。洸が漕ぐ自転車の後ろに乗っている。それだけで良かった。

 風が吹き抜けていく。洸は夏穂の事を気遣っていた。ひどい薄着。慌てて飛び出して来たのだろう。だが今夜、夏穂が飛び出して来なければ二人ここでこうして町の夜景を見る事などなかった。右手に広がる美しい情景。そして夏穂。美しい。何て美しいんだろう。美しい。美しい…。

「なあ」

「ん?」

「今の事、忘れんなよ」

「え?」

「この景色とか、色々…。綺麗な物とか、美しいな、って思うものとか。忘れんなよ。俺がいつかこの町を出て行っても。俺が消えても」

夏穂は込み上げて来るせつなさに耐えられる自信が無かった。誰が忘れられると言うのだろう。どうかしてしまいそうな自分がここにいるのに。洸といるのに。

「…いつか、いなくなっちゃうの?」

洸は頷いた。

「もし、俺がいなくなったら、何も聞くなよ。探したり。いなくなった人間の噂話をする様な真似だけは誰にもして欲しくないんだよ。何も聞かず、ただそのまま静かに見送ってくれ。約束してくれ。それだけは約束してくれ」

夏穂は急に胸の不安を覚えた。洸は何も今日明日、いなくなる訳ではない。なのに。なのに…。



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