マエストロとマネージャーと恋と嫉妬と
テンポの変わる箇所。
マエストロは、夜の香りが漂ってくるかのような雰囲気を作り出してきた。


ーあ。

ゾクリと身体が糸で絡めとられる様に、強ばった。

こちらに目線を送っていることに、はっと気付
く。熱を孕み、身体の自由を奪うような妖しい目つきに、心臓が大きく跳ね上がる様な動きをした。息苦しい程に。

なんて目つきだ。こんなマエストロは知らない
見た事もない。

普段なら、演奏中にえらく余裕じゃんと悪態をついてただろう。だが、今はとてもじゃないがそんな雰囲気ではない。

鍵盤をなぞる様に、這いつくばる様に、白く長い指は仄暗い空間に浮かび上がる。
その指から奏でられる音は極上だ。恍惚感を覚える程に。女性ならその指に触れられてみたいと誰しもが思うであろう程に。
その姿は道化師ではなく、もはや魔術師なのかもしれない。


あ、グリッサンド。あれ重音なのに。
涼しい顔で弾きこなしている。
私があれをやったら、鍵盤を血塗れにする自信だけはある。


……ずるいよなあ。


あれだけ体格が良ければ、手だって大きいだろう。力強い表現なんて思い通りだ。
そう言う羨望はコンプレックスと共にずっと抱き続けてきた。常日頃。
それでも、他人を羨むより自分と向き合い、考えながら努力してきたつもりだ。

だが、何時だって現実を目の当たりにすると、
足が止まる。今みたいに。


……ホント、ずるい。

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