それでも君が必要だ

「私、もう戻らないと……」

私がそう言うと、女将さんは懐からスッと櫛を出して私の髪をそっと梳いた。

黙って丁寧に髪を撫でる仕草から女将さんの優しさが流れ込んでくる。
その仕草に胸の奥が痛んだけれど、私は気がつかないふりをしてヘラヘラと笑った。

「あははっ、くしゃくしゃでしたよね?すみません!ありがとうございました。……失礼します」

早口でそう言い、ぺこりと頭を下げて足を踏み出した。
踏み出した瞬間わき腹が痛んだけれど、気がつかれぬよう振り返らずに足早に部屋に向かう。

女将さんの優しさに心が痛んで振り返れなかった。

私になんか優しくしないでほしい。
優しくされると心が揺れる。

私、忘れたいの。
考えたくないの。
何も感じたくないの。

部屋に戻りそっと襖を開けると、またギロリと睨む父の視線が鞭のように飛んできた。
だから静かに席につき、父に小さく「申し訳ありません」と言った。

「俺に謝ってどうする」

こちらを見もせずに父が言ったから、正面の三人に頭を下げた。

「長らく席をはずしてしまい申し訳ありませんでした」

「いいんですよ、そんな!気にしないでください。それよりお召し物は大丈夫でしたか?」

柴田専務の声はどうしても大げさに聞こえる。

「はい、大丈夫です。ご心配をおかけして申し訳ありませんでした」

「誰もお前のことなんか心配していない」

間髪入れずに父に言われ、また「すみません」と謝った。
本当に心配してもらったかどうかではなく、ただ礼儀としての言葉だったのに。そんな上げ足を取るようなことを言われるとまた暗く落ち込む。

「美和さん」

「?」

……誰?呼んだ?
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