優しい胸に抱かれて
今度はシャツじゃなく彼の上着を、涙が混じって汚してしまった。彼が身に纏うシトラスの香りは、今日飲んだグレープフルーツサワーの香りとよく似ていた。
『主任…?』
『うん?』
『…人に見られてます』
『…大丈夫、知らない人だし。誰も見てない。もうちょっとこのままで』
知らない人だとしても、見ていなかったとしても。涙が引いたら冷静に頭が働き出して、急に恥ずかしくなって身じろいだ。
『ああ、もうっ。何?』
『やっぱり、誰かに見られ…』
焦れったそうな口調に無理矢理腕の隙間から顔を出して、言い終わらないうちに彼の顔が近づいてきて視界いっぱいになったのと、唇が合わさったのはほぼ同時だった。睫毛が被さって、私は目を瞑る。
『しょっぱい…』
そう言われ、離れた唇にゆっくりと目を開ける。離れたはずの唇はまだ近くにあって、『人のこと気にする余裕なんか、今はない…』そう動いた唇は距離を詰め、私が瞳を閉じると優しく落とされた。
彼の広い胸の中は暖かくて寒さを忘れさせた。まだ桜が咲かない季節に、人通りが疎らにある中で、人目を盗んでの初めてのキスはしょっぱかった。