草食御曹司の恋

『さっきの秘書さんが、噂の?』

ある日突然会社に訪ねてきた、従姉妹の佐山栞里(さやましおり)は、美波がお茶を淹れに行くや否や、からかい混じりに尋ねてきた。
上の弟・櫂(かい)の婚約者でもある栞里は、その日は弟の忘れ物を会社まで届けに来たらしい。櫂は俺の五歳下で、三年前大学卒業とともにクマザワに入社して以来、営業本部で働いている。
営業本部は俺のいる開発生産本部と同じフロアにあるためついでに寄ったのだという。
…のは建前で、おそらく本当は母親である紫里叔母さん(母の妹だ)に噂の秘書と俺の仲を観察してこいとでも言われたのだろう。心配を掛けているのは分かるが、やや野次馬が過ぎる気がする。

『頼むからみんな放っておいてくれ。ゆっくりだけど、何とかするつもりだから』

頬を染めつつ答えた俺を前に、栞里は満足げに笑って帰って行った。

ところが、栞里が訪ねてきた日から数日後、俺はゆっくりもしていられないような事実を耳にすることになる。

業界団体が定期的に開くセミナーは、だいたいが懇親会付きで、人脈やビジネスチャンスを広げるために業種を問わず様々な企業が参加することが多い。その日も例に漏れずホテルの懇親会場は賑わっていた。
不景気とはいえ、世界的に見ればまだまだ成長が期待できる業界だ。
俺も、とある大手商社の部長と名刺交換をして、開発中の新製品の情報を提供する。
技術畑の俺は、商談というものが苦手だ。でも、この自分の立場上、ある程度はこなさなければならないことも知っている。
この手のセールストークは、弟の櫂の得意分野だ。父は迷っているようだが、将来的にクマザワの経営を任せるには、俺より櫂の方が適任だとさえ思う。

“本当なら自分は一生研究に身を投じたかった”

何度となく打ち寄せては引いていく波のように、時折おそってくる後悔の念。
それでも、仮にも自分自身で選んだ道を今更引き返すことなど出来ない。開発部門に籍を置いていられるだけでも幸せなことなのだ。
熊澤家の長男として下した決断を、この先も信じて前へ進むしかないのだ。
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