草食御曹司の恋

彼女の口から辞めたいと聞いて、驚きよりも先に「ああ、やっぱりな」と思った俺は、どうやらあの曖昧な噂話を結構信じていたらしい。

ついに、来るべき時が来てしまったのだ。
不安げな顔で話し始めた彼女の顔を見て、今俺がするべきことは何か考える。

彼女は自分で決意を固めたのだ。
引き留めるよりも、笑顔で背中を押すべきだ。

出会った頃には、俺の目には彼女はすでに十分に自立した大人の女性のように見えた。それでも、結婚よりも更なるキャリアを積みたいと言い張っていた彼女だが、今回はそんな悠長なことを言っている場合ではないのだろうか。
自分自身もかつてそうであったように、家のため、会社のため、働く社員のため、自分の望みとは別の道を選ばねばならないときがあるのだ。

『わかりました』

出来るだけ無表情で言った。なるべく、彼女の仕事上の上司として振る舞ったつもりだ。
個人的な顔を少しでも覗かせれば、今すぐに彼女を引き留めてしまいそうだった。

退職の時期を相談してきた彼女に、今月いっぱいの退職を了承し、有休消化を勧める。

『二年間、お世話になりました』

深々と頭を下げた彼女に、ひっそり最後に微笑んで言葉を返した。

『こちらこそ』

本当に伝えたかった“ありがとう”は情けないことに胸がつまって言葉にはできなかった。
頭を下げたままの彼女には、俺が微笑んでいたなんて絶対に伝わらないだろう。

それでいい。
君は本当に優秀な秘書で。
自立した素敵な女性だった。

そのことは、俺がちゃんと知っている。
この世で、俺だけが知っていればいいことだ。
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