草食御曹司の恋
まさか、ここで彼女の弟に会うとは。
唖然として立ち尽くす俺に向かって、今度は洸が得意げに説明し始めた。
「聡輔は中等部からの友達で、矢島物産の跡取りなんだ」
矢島物産の跡取りが目の前にいる。
ということは美波が婿を迎えるために結婚するというのは、俺の邪推に過ぎなかったのか。
事実を知って、気付けば俺はうわごとのように口走っていた。
「矢島物産といえば、社長がご病気だと伺ったのだが……」
言い終えてから、あまりにも不躾に尋ねてしまったことを後悔した。しかし、聡輔は特に気にすることもなく、笑って何でもないことのように答える。
「ああ、その噂はまっ赤な嘘なんです。実は、ぎっくり腰で…伯父は数日自宅療養していたんですよ。それが、恥ずかしがって隠していたものだから、変な噂が立ってしまって。もうすっかり回復して出社しているんですが、本人も真相を尋ねられて困っているみたいです」
茶目っ気たっぷりに答えた聡輔は、もう一度俺に向かって深々と頭を下げた。
「姉が突然わがままを言ったようで、申し訳ありませんでした。ご迷惑をお掛けしたのではないかと父と母も心配していました」
「お姉さんは、今…」
「お陰様で、先週シンガポールに旅立ちました。向こうでしばらく働いて、そのうち働きながら大学へ通うつもりのようです。経営について勉強したいと言っていました」
「そうか…」
聡輔とやり取りしながら、あの時彼女に退職の理由を尋ねなかったことを後悔した。
「お姉さんに伝えて」
それでも、夢を追い求める彼女をあの時の俺が止められたかと聞かれれば、自信がないとしか言いようがない。
「ありがとう、頑張って」
最後に伝えたくても伝えられなかった言葉を託して、俺は和室を後にした。