草食御曹司の恋
リビングへと戻ると、母が淹れたての珈琲を運んできたところだった。
ソファに腰を下ろしてカップを受け取り、ブラックのまま口に流し込む。
一息ついたところで、母に尋ねてみた。
「父さんは?」
「出張中だけど?」
当たり前のように答えられて、急に肩身が狭くなる。そうだった。確かに先週そんな予定を聞いたような気がする。どこまで、心ここにあらずなのかと再び自分に呆れる。
俺らしくない姿に気付いたのか、母はふふっと軽く笑って呟いた。
「晩ご飯食べていくでしょう?今日はビーフシチューよ」
ビーフシチューは母の得意料理だ。というよりは、父の好物といった方がいいかもしれない。時間を掛けてじっくり煮込まれたそれは、俺にとっては子どもの頃から慣れ親しんだおふくろの味だった。
「母さんは、仕事を続けようとは思わなかったの?」
ふと、どうしてか無性に尋ねたくなった。
結婚前銀行に勤めていたという母は、結婚後はずっと専業主婦で家に居ることが多かった。経営者の妻として何かと雑用も多い上に、四人の子どもの世話に忙しかった母を思えば、感謝の言葉しかないが、その一方で違う生き方を選ぶ道はなかったのだろうかと、疑問に思ったのだ。
「お父さんと結婚するために、仕事を辞めた訳じゃないのよ。たまたま辞めた後に結婚することになったの」
「じゃあ、続けられるなら続けたかった?」
「どうしたの?急に」
「いいから、考えてみてよ」
怪訝そうな顔で俺を覗き込んだ後で、母は視線を宙に彷徨わせた。
それもほんの数秒のことで、すぐに見つかった答えを口にする。
「そうね、確かに仕事も好きだったけど。どうかしらね。続けていても、両立するのが大変で辞めてしまっていたかもしれないし。正直なところは、よく分からないわ。ただ言えるのは、どちらか選ばなくちゃいけない時には、私は仕事よりお父さんを、家族を選んだと思うの。今の私は、仕事はなくても、十分過ぎるくらい幸せよ」
「後悔してることはない?結婚相手に、父さんを選んでよかった?ほら、色々面倒臭い付き合いも多いしさ」
「やあね、本当にこの子ったら、急に何を聞くの?」
「いいから、答えてよ」