草食御曹司の恋
「梓…」
「なあに?博之くん、まだ足りない?」
「いや、もう結構」
「照れてるの?」
「梓の方こそいつからそんな大胆な女になったんだ?」
「忘れたの?あなたが私に教えたんじゃない」
クスクスと笑う彼女の顔は、何故かとても幸せそうに見えた。二人の関係は、幸せとはほど遠いはずなのに。
一時の気晴らしのために、純真無垢な彼女を最初に汚したのはこの俺だ。それについてはいくら最低なヤツだと罵られても、甘んじて受ける覚悟くらいはあった。
俺にとって誤算だったのは、それが一度きりで終わらなかったことだ。
その気がない俺に、彼女は付き合ってくれと言うわけでもない。ましてや、結婚を迫るわけでもない。もしかすると、周りの誰にも打ち明けてすらないのかもしれない。
意外にも、お嬢様育ちの彼女は簡単に都合のいい女に成り下がったのだった。
ただ、どちらからともなく約束しては逢瀬を重ねる。そんな関係が長く続いた。他にも寝るだけの女は居たが、ずっと続いてるのは梓だけだ。
俺がシンガポールに来てからは、会う頻度がますます増えた。
CAとして航空会社に勤める彼女のスケジュールには、月に数回シンガポールでの滞在が組み込まれているからだ。
この街に彼女がいると聞けば、俺は不思議と会いたくなる。
その感情を、人は恋だとか愛だとか呼ぶのかもしれない。
十年以上の時をかけて、ようやくそのことに気が付いた俺は、余程の鈍感か馬鹿なのだろう。
ひょっとすると意図的にスケジュールを組んでいるのかもしれないと都合のいい期待をしてみても、この俺に彼女がそこまでする理由が見つからない。
家柄もよく、才色兼備の彼女のことだ。望めば相手は他にいくらでもいるに違いない。単に初めての男というだけで、俺には何の価値もないはずだ。
だから、そろそろ。
この関係にもケリを付けなければと思っていた。
これ以上、彼女に固執するのはやめよう。
錬に対する劣等感も、自分に対する失望も、今ではもう昔の話だ。ちゃんと、互いを認め合い、二人とも前に進んでいる。
彼女だけをこの先も引き止めるのは、明らかに間違っている。
彼女を解放する。
それが、俺にできる唯一の罪滅ぼしだ。