草食御曹司の恋
私は驚きのあまり、目をおおきく見開いて、そのまま固まった。
瞬きすることも忘れて、目の前で起きていることが夢か現実か、分からなくなるくらいには混乱していた。
「久しぶり」
その人は唖然とする私に語りかけた。
「その顔だと、君も何も知らずにここへ来たのかな?」
固まったままの私に、その人は少し硬い表情で、私をドアの内側へと促す。
「とりあえず、中へ入って」
相変わらず頭はぼーっとしたまま、ただ彼の背中を追い掛けた。
部屋の中は、他には誰もいなかった。
一人暮らしには丁度良い大きさのリビング。
モスグリーンのソファーには無造作にジャケットが掛けられていて。
その横に大きなキャリーケースが置かれていた。
「俺も、さっきここに着いたばかりで」
そう言いながら、振り返った彼は3年前よりもぐっと落ち着いて、頼もしさが何割か増したように思う。
「とりあえず、座って」
彼はジャケットをソファーからキャリーケースの持ち手へと掛け直して、私に座るように促した。
「何か飲む?冷蔵庫にはミネラルウォーターしか入ってないらしいけど」
そう言って彼が指さした方を見れば部屋の一角に小さな冷蔵庫が置かれていた。彼は冷蔵庫に近づき扉を開いて「ホントに水しか入ってないな」と小さく溜息をついた。
部屋にキッチンが付いていないことを考えれば、自然な結果だろう。あまり家庭で料理をする習慣の無いシンガポールでは珍しいことではない。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます。いただきます」
久しぶりに彼と同じ部屋で二人きりになったことで、気付かぬうちに緊張していたのだろう。喉がカラカラだった私は素直に彼が差し出した好意を受け取った。
彼も腰掛けて、ミネラルウォーターのボトルを傾ける。私はミネラルウォーターを飲みながら、こっそりとその姿を眺めた。やはり、何度見直しても間違いなく彼だ。
よく冷えた水が私の喉を勢いよく通っていく感触で、目の前で起きている出来事は、夢ではなく現実なのだと改めて認識する。急に胸が忙しなく動き始めた。
L字のソファーの端と端、それほど彼との距離が近くないことに安堵する。隣に座られたら、きっと心臓の音がうるさくて会話など到底出来ないだろう。