君の隣
帰宅しても、夕食をつくる気力はなかった。

 ベッドの端で丸くなり、ただ静かに時間が過ぎるのを待つ。

拓実が帰ってきたのは、そんな夜の8時すぎだった。

「……ただいま」

返事はない。

 けれど、寝室の扉がわずかに開いていることに、拓実はすぐ気づいた。

「理名……?」

「……ごめん。

 ……夕飯の支度も、洗濯も、何もしてない」

声はかすれ、微かに震えていた。

 拓実は理名の傍に腰を下ろし、何も言わず、ただ静かに彼女の手を取った。

しばらく沈黙が流れたあと──理名はぽつりとつぶやいた。

「……何のために手術して、何のために治療してるのか……わかんなくなっちゃった。

 ……ちゃんと戻れるのかな、前のわたしに……」

その声は、医師ではなく、ひとりの“病に立ち向かう女性”のもので。

 強さの仮面が完全に外れた、その素顔のままで。

 

拓実は──その夜、白衣を取りに、クローゼットを開けた。
そして、静かに着替えた。

 白衣に身を包み、聴診器を首にかけ、ベッドに戻る。

驚いて顔を上げた理名に、彼は言った。

「今夜は、主治医の先生に戻るよ。
 患者さんが、ちょっとつらそうだから」

言いながら、理名の手を取り、静かに脈をとる。

「すこし早いね。

 でも、リズムは安定してる。
 ……体は、ちゃんと頑張ってるよ。

 すごいね、理名の身体」

理名は、涙ぐみながら笑った。

 「……拓実、それ反則……」

「反則でもいい。

 理名が“自分を信じる力”を少しでも取り戻せるなら、なんだってする」

拓実はゆっくり彼女を抱きしめた。

 白衣のままで──まるで、“医師”と“夫”のすべてを込めて。

 
その夜、理名は久しぶりに深く眠った。

 誰かの“手”が、自分を支えてくれている──そう確信しながら。

 
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